第2話:祖父の涙と血の畳
少女の名前は西園寺美咲(さいおんじ みさき)。両親は既に亡くなっており、祖父の西園寺重雄(しげお)と二人暮らしだった。重雄さんは地元の農家で、どこか厳格な空気を纏いながらも、畑の帰りには美咲の好きな煎餅を必ず買って帰るような優しい人だった。
事件後、悲しみに沈む重雄さんを訪ねて、私たちはようやく事の詳細を知ることになる。
しばらく仏間で線香を焚き、手を合わせた。重雄さんの手は微かに震え、線香の甘い香りが部屋に満ちる。遠くでは蝉の声がかすかに聞こえ、重雄さんの瞳には深い悲しみが浮かんでいた。
重雄さんは、時折声を詰まらせながら、ぽつりぽつりと語り始めた。美咲が妊娠していることには全く気づかなかったという。
制服が少しきつそうなことには気づいていたが、成長期だと思い込んでいたと、重雄さんは目を伏せた。
「最近は、あいつよく食べるようになってな……てっきり成長期だと思ってたんだよ…」と、照れたように呟いた。
だから、事件当日も美咲が腹痛を訴えたとき、「夏休みの子どもの腹痛ぐらい珍しくもない」と考え、家で休ませて水を飲ませただけだった。その油断が、取り返しのつかない悲劇へと繋がった。
まさか出産間近だったなんて、夢にも思わなかった——重雄さんの声は、震えていた。
いつも通り、日没まで畑仕事をして帰宅した。夕焼けに染まる畑道を歩きながら「美咲の好きなスイカでも買って帰ろうか」と思っていた、と後に語ってくれた。
家に着くと、すぐに異変に気づいた。
縁側のガラス戸は半開きで、家の中は異様なほど静まり返っていた。台所には水の入ったコップが転がり、廊下には小さな足跡が点々と続いていた。
美咲は布団の上で動かず横たわっていた。下半身とシーツ、掛け布団は血でびっしょり濡れていた。畳にも真新しい血が広がり、生々しい赤が目に焼き付く。扇風機の風でカーテンがはためき、その音だけが虚しく響いていた。重雄さんはその場に膝をつき、嗚咽を漏らしながら、しばらく動けなかったという。
相当な痛みに長時間苦しんだに違いない。唇を噛み、顔を歪めて耐えた跡がまだ残っていた。
この痛ましい死は、最終的に事故死と判断されたものの、社会的な衝撃は計り知れず、私と木下大輔(きのした だいすけ)が中心となって捜査に当たることとなった。
新聞記者が連日町に詰めかけ、町のスーパーでは知らない顔が増え、住民たちは小声で噂し合っていた。町内会や小学校にも取材が殺到し、役場の窓口には苦情が相次いだ。私たちは大急ぎで聞き込みを始めた。
彼女はまだ12歳。刑法第177条により、同意の有無を問わず、性行為をした者は強制性交の疑いがある。
「たとえ遊び半分でも、相手が未成年なら絶対に許されない」と、木下が歯ぎしりしながら呟いた。
私たちは重雄さんに、美咲が親しくしていた男性について尋ねたが、彼は「家と学校、たまに駄菓子屋に行くくらいで、男の子と親しくしている様子は見たことがない」と首を振った。
直接は聞かなかったものの、私たちも内心、重雄さんを疑わずにはいられなかった。田舎町の噂はすぐ広がる。「まさか……」と自問しつつも、職務として冷静に調べるしかなかった。
重雄さんは当時52歳。地方では40代前半で祖父母になるのも珍しくない。もし本当に彼が父親なら、それは人としての一線を越えた行為だ。
複数犯の証拠もなく、唯一の手がかりはDNA鑑定だった。胎児の父親こそが加害者。
鑑定キットを前に、私は手の震えを抑えられなかった。木下も静かに深呼吸していた。
幸い、鑑定結果は重雄さんが胎児の父親ではないことを示していた。
重雄さんは「よかった」と涙を浮かべたが、その表情は複雑だった。疑われた悲しみと、孫の死の重さが交錯していた。
では、父親は誰なのか?
——私たちの捜査は、再び振り出しに戻った。