第3話:揺れる母心と別れの決意
誠は私を長い廊下へと案内した。
踏みしめる畳の感触、障子を透かす午後の光。五年ぶりの我が家は、懐かしさよりもよそよそしさが勝っていた。
見慣れた景色を眺め、私はしばし立ち尽くした。
春には桜、秋には紅葉が彩った庭園――思い出の中のままではなかった。
私と誠は幼なじみで、若くして結婚した。
家同士の結びつきも深く、私たちは祝福されて育った。あの頃は未来が永遠に続くものだと信じていた。
彼がプロポーズした時、特別に桜ヶ丘邸を建て直し、私の実家と同じように静かで優雅に整えてくれた。
石灯籠に苔がむし、池の水には金魚が泳いでいた。
今や池のそばの桜も、中庭の紅葉もなくなっていた。
かつての華やかさは、もうどこにもなかった。
誠が説明する。「藤音は喘息持ちで、花粉や桜の花びらに近づけないんだ。」
申し訳なさそうに、少し目を伏せながら言った。
だから、桜ヶ丘邸は今や藤音の住まいだ。
私の思い出の庭は、もう彼女のための空間になっていた。
私は目を伏せ、薄く微笑んだ。「当然、彼女の健康が最優先ね。」
その微笑みは、どこか自嘲を含んでいたかもしれない。
誠は驚いたようだった。
私を見て、眉をひそめる。
「尚美、君はすっかり変わったな。」
その口調には戸惑いが混じっていた。
私は軽く答えた。「悪いことかしら?」
肩をすくめ、何気ないふうを装って返す。
彼は急に笑った。「いいことだ。」
思いがけない明るさが、その表情に戻った。
「君が藤音を受け入れられないのではと心配していた。今の君なら、他人を許す度量があるようだ。」
かつて誓いを立てさせた。生涯、私だけを正妻とし、他の女性も迎えないと。
私たちの婚礼の夜、その誓いは家紋入りの杯に注がれた酒のように、厳粛であった。
彼は当時、熱心に誓い、永遠の愛を誓ってくれた。
だが『生涯』はあまりに短かった。結婚四年目、私は崖から落ち、世間では誠の亡き妻となった。
その『生涯』の儚さが、今になって心に刺さる。
再婚や他の女性のことなど、死んだ妻には関係ないはずだった。
だが私は生きて戻ってきた。
命を拾ったことで、運命の糸がまた絡まってしまった。
これが彼の言う『他人を受け入れる』ということなのだろう。
私は眉をひそめた。
「誠。」
「君が思っているようなことじゃ……」
彼の声音は、どこか苦しげだった。
言いかけたところで、遮られた。
廊下の端に、藤音が扉にもたれて立っていた。
藤色の着物が儚げで、頼りなさそうに佇んでいる。
袖で顔を覆い、静かに咳き込んでいる。
「お姉様はお戻りになったのですか?」
彼女の声は震えていた。
誠はすぐに前へ進み、家政婦からカーディガンを受け取って彼女の肩に掛けた。
春先の冷たい風が廊下を抜ける。誠は心配そうに彼女の背中をそっと支えた。
私は一瞬ためらったが、礼を欠くわけにはいかず、後に続いた。
何しろ彼女は咲良と駿を育ててくれたのだ。
私の大切な子供たちの世話を、長い間してくれた恩がある。それだけで、心から無視することはできなかった。
彼女が私に触れた以上、無視するのは失礼だ。
それがこの家のしきたりでもあった。
彼女の顔立ちは私と六割方似ている。
柳のような眉、アンズのような瞳。だが目尻が少し下がり、どこか幼く儚げな印象を与える。
控えめな立ち姿は、都会の奥ゆかしさを感じさせた。
私が近づくと、彼女は視線を落とし、控えめに頭を下げた。
膝を折り、静かに挨拶をするその所作は丁寧だった。
隣の家政婦が漆塗りの盆を持ち、その上には湯気の立つ湯呑みが二つ。
お茶の香りがほのかに漂う。盆の下には折り目正しい白い懐紙が敷かれている。
彼女は一つを手に取り、私に差し出した。
「お姉様にお茶をお持ちします。」
小さな手がわずかに震えていた。
私は受け取らず、穏やかに言った。
「そんな形式は要りません。あなたはもう、この家の奥様なのだから。」
淡い微笑みを添えて、やんわり断った。
藤音は私を見上げた。
大きな瞳が揺れていた。
次の瞬間、手が震え、湯呑みを落とした。
カチャン――白磁が畳の上で砕け、熱いお茶が手の甲にかかる。畳にこぼれたお茶の香りがふっと立ちのぼり、わずかに苦い匂いが鼻をついた。
彼女はすぐに手を袖に引っ込め、まつ毛を震わせて大きく傷ついたように詰まった声で言う。「お姉様は、私が奥様の座を奪ったから受け取ってくれないのですか?」
涙をこらえるように声が震え、手の甲が赤く染まっていく。
誠はすぐに彼女の後ろから進み出て、彼女の手を取った。
かつて白かった手の甲は、今や赤くなっている。
「氷水を持ってきて。」
家政婦たちに指示し、私の方を振り向くと、その目には怒りが満ちていた。
「まさか君が、これほど意地悪になっているとは思わなかった。」
皮肉たっぷりの口調だった。
「そうか。何年も外で暮らしていれば、したたかにもなるだろう。」
私の胸に冷たい刃が突き刺さるようだった。
一言一言が私の傷を抉る。
私は袖を握り締め、冷たい目で彼を見つめた。「そのお茶をこぼしたのは私じゃない。」
誤解される悔しさと悲しみが、胸の奥でじくじくと疼いた。自分のせいではないのに責められる、その不条理さに唇がかすかに震える。
家政婦の紅子が、もう一つの湯呑みを盆から取った。
私はそれを受け取り、彼に投げつけた。
「これが現実よ。」
湯呑みはカランと畳の上を転がった。
「誠、言葉に気をつけなさい。」
声を低くして、静かに告げる。
彼は藤音を庇いながら身をかわしたが、服にはお茶がかかった。
彼の目は冷たくなり、怒りを押し殺した声で言った。「君は本当に理不尽だな。」
その言葉に、しばらく胸が痛んだ。
彼は藤音を連れて中へ入り、私は外に立ち尽くした。
庭の苔の上に、まだお茶の香りが漂っていた。
私は深呼吸した。
青空を見上げ、春の風を胸いっぱいに吸い込む。心を落ち着かせようとしたが、ますます子供たちが心配になった。
藤音がどのように彼らを育てているのか。
どうしても気がかりでならない。
そう思い、紅子に「書斎に行って、駿くんをここに連れてきて」と指示した。
「はい」と紅子が頭を下げて去る。
私は東屋で駿を待った。
庭の苔むす石畳を眺めながら、子供の面影を思い返した。
十五分も経たず、駿がやってきた。
髪を二つに結い、まだ幼い丸い顔をしているが、すでに誠に似た面影があった。
小さな口元や、きりっとした目元――父親譲りの凛々しさがあった。
だが、彼の表情は明るくなかった。彼は手をもじもじさせ、私と目を合わせず、視線を庭の方にそらしていた。
紅子が促す。「駿くん、この方があなたの生みのお母様ですよ。」
駿は一歩前に出て、しぶしぶ頭を下げて「お母さん」と呼んだ。
私は静かに彼を見つめ、涙がじわじわと目に溜まった。
私が去った時、彼はまだ赤ちゃんだった。
今やこんなに大きくなったのだ。
手のひらほどだった小さな指が、今は筆箱を握るほど成長している。
私は手を震わせながら頬に触れようとした。
だが、彼はその手を避けた。
私は手を引っ込め、気を悪くせずに聞いた。「今まで、お父さんと藤音さんはあなたにどう接してきたの?」
彼は答えた。「父は会社の仕事で忙しく、あまりかまってくれません。でも藤音さんはとてもよくしてくれて、僕の好みも覚えていて、毎日ご飯を用意してくれますし、先生も自分で探してくれました。」
藤音の話になると、彼の目は輝いた。
私は静かに頷き、心の奥に痛みが走った。
私の胸は痛んだ。
だが、少なくとも藤音は彼に悪いことはしていない。
そのことに、ほんの少しだけ安心した。
私は無理に笑った。
笑顔の奥に、どうしようもない切なさが広がった。
彼は私を見上げて言った。「でもお母さん、なぜ戻ってきたのですか?」
私の笑みは凍りついた。
問いかけの真剣さに、胸が痛む。
彼は気づかず続ける。「藤音さんはどうすればいいんですか?」
私は感情を抑え、穏やかに答えた。「彼女はお父さんの奥さん。それは変わらないわ。」
穏やかな声で、気持ちを伝える。
彼はさらに問い詰める。「じゃあお母さんは?」
私は言った。「私も再婚した。でも、あなたと咲良のことがずっと気がかりだった。今回戻ってきたのは、あなたに——」
言い終える前に、駿は驚いた顔で私を遮った。「再婚したの?」
私はうなずいた。
彼は怒り、目を見開いた。
「お母さんは何年もいなかった——どうやって生きてきたかわからないし、もう評判も落ちている。そんな人を誰が嫁にもらうの?それに、その人は僕を息子として受け入れるの?」
少年らしい直球な物言いに、私は胸が詰まった。
誠の言った通りだ。
駿はもう私を母と認めていない。
彼の声からは、距離と反発心が伝わってくる。
私は彼の顔をじっと見つめた。
「そんなこと、誰に教わったの?」
その背後には、大人の言葉や周囲の目があったのだろう。
彼は唇を結び、黙っていた。
私はすでに答えを知っていた。心が重く沈む。
息をつき、膝の上で手を組みなおす。
「これからは私が直接あなたを教える。先生は変えましょう。」
母親としての責任を示したかった。
駿は眉をひそめた。
「お母さんが再婚したのに、どうして西園寺家のことに口出しするの?」
彼の声は、子供らしい不満と怒りが混ざっていた。
少し話しただけで、彼が誤解されているのがわかった。
今や彼は頑固で手に負えない。
けれど、私自身が育てなかったことを思えば、少し気持ちも和らぎ、腰の根付を外して彼に渡した。
母の形見として、大切にしていたものだった。
「もし後悔することがあったら、私を訪ねてきなさい。生みの母として一度だけ助けるけれど、条件があるわ。」
駿は長い間迷った末、それを受け取った。
その手が、わずかに震えていた。
私は咲良に会うのが少し怖かった。
胸の奥がざわつき、手のひらにじっとりと汗がにじむ。
東屋で一人、長いこと座っていた。
沈む夕日が、庭の石灯籠を赤く染めていた。
心は次第に沈んでいった。
思い出は、時に人を強くも弱くもする。
紅子が「お嬢様、ご主人が白石家に手紙を送ったので、咲良様もすぐに帰ってきます」と言った。
「ありがとう」と小さく返し、私は手の中でハンカチを握りしめていた。
夕暮れ時、咲良が帰ってきた。
家の門をくぐるなり、ぱたぱたと足音を響かせて走り寄ってきた。
彼女はまず私の元へ駆け寄り、制服の裾を持ち上げ、墨の香りと少し汗の混じった匂いを残したまま叫ぶ。
「お母さん!」
私は彼女をしっかりと抱きしめた。
細い肩が小さく震えていた。
彼女は私の胸元に顔を埋め、涙を流した。
その髪に手をそっと当てると、制服のしわの感触と、ほのかに残る墨の香りが指先に伝わる。母親の温もりが、じんわりと胸に広がった。
「お母さん、私が母さんを殺したと思っていました……」
声は嗚咽に変わり、私の心も張り裂けそうだった。
胸が締め付けられる。
私は急いでハンカチを取り、彼女の顔を包み込んで涙を拭った。
その柔らかな頬に、母としての温もりを確かめる。
「咲良、泣かないで。あの時、私が崖から落ちたのは刺客のせいで、あなたのせいじゃない。」
できる限り優しく、安心させるように言葉を選んだ。
あの年、誠は市長選で三男を支持し、手段を選ばず多くの敵を作った。
都の政界は、表向き静かでも裏では水面下で様々な争いがあった。
私たちが山の寺に初詣に行った時、刺客に襲われた。
初詣の鈴の音も、あの日だけは不吉な予感しか残さなかった。
私は咲良を守るため、誠のコートを羽織り、刺客をおびき寄せた。
逃げる途中、崖から落ちて重傷を負い、記憶を失い、青森をさまよい、そこで斎藤靖と出会った。
雪国の静けさと温もりが、私の傷を癒してくれた。
しばらく彼女を慰めた。
彼女は和紙を一枚取り出して見せてくれた。
まだ筆遣いは幼いが、明らかに私を描いたものだった。
薄墨の線で描かれた母の面影。涙の跡が紙に滲んでいた。
さっきまで泣いていた彼女は、声を詰まらせて言う。
「これは白石先生に教わったの。お母さんの肖像画です。」
その目は、私の反応を恐れるように揺れていた。
白石先生・明美は、私のかつての親友だった。
四年前、誠が再婚した時、咲良は明美の弟子となり、絵を習い、よく白石家に泊まっていた。
私は絵をじっと見つめ、知らぬ間に涙がこぼれた。
咲良の想いが、一本一本の筆に込められているのが伝わってきた。
だが彼女はしょんぼりして言う。「藤音さんは、私の絵は下手だって。」
「父の長女なのだから、そんなものを学ぶ必要はないと。でも白石先生は、お母さんは都一番の書画の名手だったと言って、私もお母さんのようになりたいの。」
私は微笑んだ。「あなたの年でこれだけ描ければ、十分上手よ。」
言葉に嘘はなかった。
これは慰めではなかった。
咲良はようやく笑い、涙で目が三日月のようになった。
その笑顔は、私の心の傷も少しずつ癒してくれた。
私はそっと尋ねた。「私は再婚した。咲良、一緒に西園寺家を出て青森へ行く気はある?」
彼女は力強くうなずいた。
迷いのない目だった。
私は大きく息をつき、微笑んだ。「よかった。荷物をまとめさせるわ。数日中に発ちましょう。」
新しい未来への一歩が、心の中で静かに響いた。
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