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裏切りの給料明細 / 第5話:退職、そして新たな夜明け
裏切りの給料明細

裏切りの給料明細

著者: 河野 颯太


第5話:退職、そして新たな夜明け

まるで頭を殴られたような衝撃だった。

体が一瞬宙に浮くような感覚。吐き気がこみ上げてきた。

佐伯美咲が入社したばかりの頃、彼女は私に住宅ローンや住宅積立金について何気なく聞いてきた。

「あの、先輩。家って、いつごろ買うのがいいんですか?」——何気ない世間話だと思っていた。

私は、家を買いたいのかと思い、親身にアドバイスした。

ネットで調べて、金利の話まで丁寧に説明した。自分の経験を語りながら、少しでも役に立てればと。

実は、私の給料を推測するための探りだったのだ。

今になって、彼女の質問の意図が痛いほど分かる。「ああ、そういうことか」と、苦笑するしかなかった。

私は彼女を自分の仲間だと思っていたのに。

何度もランチに誘い、一緒にコンビニへ行った。「頼られている」と思い込んでいた。

ずっと親身に指導してきたが、陰で嘲笑されていたとは。

背筋が凍った。信頼していた分、裏切りの痛みは何倍にもなった。

怒りを通り越して、妙に冷静になった。

自分でも不思議なくらい、心が静かになった。

私は佐伯美咲の原稿を開き、直した箇所の一つを元に戻した。

あえて、ひとつだけ直しを消した。彼女が気付かずに提出するよう、静かに細工した。

彼女が戻ってきた時、ファイルを送った。

「美咲、大体直しておいたから、もう一度自分で確認してね。このトレンドネタはいいから、今のうちに早く出した方がいい。きっとバズると思うよ。」

微笑みながらも、心の奥には冷たいものが沈んでいた。

彼女は大喜びした。「本当ですか?先輩、ありがとうございます!」

満面の笑み。その無邪気さが、今は憎らしくすら感じる。

佐伯美咲は3ヶ月いて、まだ実績がない。

彼女なりに焦っているのだろう。「バズらせたい」と何度も言っていた。

必死で私のようにバズ動画を作りたがっている。

「頑張ってね」とだけ心で呟く。

私は微笑んで黙っていた。

唇の端だけ持ち上げて、静かに頷いた。

その後、退職願を書き、田島信也と高梨さんに送信した。

メールの「送信」ボタンを押した瞬間、肩の力が抜けた。

そして、パソコンに保存していた未完成の企画書「ショート動画差別化の新戦略」を削除した。

ファイルのゴミ箱アイコンに、長い時間カーソルを合わせていた。

2ヶ月かけて、睡眠も休みも削って調査・まとめたものだった。

休日出勤の合間に図書館で調べ、早朝から統計をまとめた。誰にも頼まれていないのに——。

元々は会社の動画コンテンツのマンネリ化を解決したくて用意した。

「この企画があれば、またみんなを驚かせられる」と信じていた。

でも今思えば、ただの自己満足だった。

もう誰のためでもない。自分のために消した。

田島信也は「新人は賢い」と言った。

その言葉が、皮肉のように胸に残った。「好きにすればいい」とさえ思えた。

なら、新人に問題を解決してもらえばいい。

すべて終えた時、時計を見ると17時47分。

定時退社まで、あとわずか。こんなに早く帰るのは初めてだ。

きっぱり荷物をまとめ、18時ぴったりに退社した。

机の上にそっと名札を置き、静かにロッカーの鍵を返す。

6年間で初めての定時退社だった。

会社の自動ドアが静かに閉まり、夕暮れの新宿の空が窓に映る。駅まで歩く途中、高田馬場の発車メロディー「鉄腕アトム」が遠くで流れた。都会のざわめきとともに、私の胸にも新しい風が吹き抜けた。

エレベーターの鏡に映る自分の顔が、少し晴れやかに見えた。

仲の良い営業の和田さんが驚いて声をかけてきた。「中村さん、今日は早いね。どうしたの?」

オフィスのエントランスで、彼女が小走りに駆け寄ってきた。息を弾ませて、心配そうに見つめてくる。

私は静かに答えた。「和田さん、もう退職しました。明日から来ません。」

指先で目元をそっと押さえながら、小さく頭を下げて、その場を後にした。

この先、私の人生はどうなるのだろう。そんな思いが胸の奥に浮かんだ。

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