第4話:壊れる日常、壊れる信頼
社長室を出ると、ちょうど人事の高梨さんが入っていくところだった。
高梨さんのパンプスの音が、廊下に小さく響いていた。いつもより背中が丸まって見える。
彼女は私を見ると気まずそうな顔をした。
一瞬、目をそらしてから、すぐに小さな会釈をした。廊下の静けさがやけに重たい。
なぜ私が来たか、察しがついたのだろう。
「……私のミスでした、社長、すみません……」
扉の隙間から、かすかに聞こえてきた。声が震えていた。
「昇給要求?会社の経営や給与体系を分かってるのか?在籍年数だけじゃないんだよ。」
社長の声が冷たく響く。ため息混じりの口調が、何度も繰り返されているようだった。
「それに、中村さんはここ半年で残業が減ってる。前から会社に不満があったのかも……」
思わず、拳を握りしめてしまう。ガラスに映る自分の顔が、赤くなっていた。
これを聞いて、拳を握りしめた。
誰よりも夜遅くまで残った日々。休日出勤も、体調を崩しても休めなかった。「昔はよく働いた」と言われるが、それがなぜ今の評価にならないのか。
人事は目が節穴か?
怒りのあまり、足元の床が歪んで見えた。
数年前は仕事量が膨大で、残業しまくっていた。みんながブラック企業のような働き方をしている時、私は深夜まで仕事をしていた。
オフィスの電気を消すのは、いつも私だった。社員証をタッチして帰る時の寂しさは、今でも忘れられない。
今年は会社が拡大し、雑務が他の人に割り振られ、
「人手が増えたから」と仕事が細分化された。正直、ほっとした部分もあったが——
体調も崩し始めて、前ほど無理ができなくなった。
医者に「もう少し休みなさい」と言われて、渋々休暇を取ったこともあった。
それでも、他の人よりずっと働いている。
手帳の出勤記録が、それを証明している。
高梨さんは本当に目が節穴だ。
「現場を知らないくせに」と、心の中で呟いた。
「社長、もし本当に彼女が辞めたら?」
高梨さんの声が少し震えていた。「中村さんがいないと、業務が…」と言いかけたのかもしれない。
「なら辞めさせればいい。会社が彼女なしで回らないとでも?最悪、金を出して新しい人を雇うだけ。新人は賢いし、古株の腐った魚みたいな連中よりマシだ。」
ガラス越しの声が、まるで凍った風のように聞こえた。
……はいはい。
心の中で何度も皮肉を繰り返す。会社は、私のような古株を、ただのコストとしか見ていない。
引き留めるふりは、結局人件費をケチりたいだけだった。
ドア越しに聞こえる声に、もう涙も出なかった。
私は全力を尽くしたが、会社は私を大事に思っていなかった。
長く居れば居るほど、使い捨てになる——そんな現実が、骨身に染みた。
本当の道化は私だった。
情けなさと悔しさが混ざり合い、足取りだけがやけに重かった。
佐伯美咲のデスクを通りかかると、彼女はいなかった。
机の上には、飲みかけのタピオカと、ピンク色のふせんだけが残されていた。
ふと画面を見ると、新しいメッセージがポップアップした。
自分の席のPCが、ポン、と音を立てた。無意識のうちに、その画面を覗き込んだ。
「ハハハ、マジかよ。とぼけてれば、10万円ももらえない上司が毎日代わりに仕事してくれるって?これぞ立場逆転だな。」
指が震えた。まさか、こんなメッセージを見ることになるとは。
私はもう、この職場に心を置いてはいけないと悟った。
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