第6話:炎上と逆転の電話
「えっ?」
和田さんは席から立ち上がった。
会議室のガラス越しに、彼女の驚いた顔がはっきり見えた。
「どうしたの?なんで急に?」
声のトーンがいつもより高い。彼女は本当に心配してくれている。
「和田さん、今は頭が整理できてなくて、後で説明します。」
少し微笑みながら、でも目は笑っていなかったと思う。
その夜、私はスマホをサイレントにして、久しぶりにぐっすり眠った。
雨音も、隣室のテレビの音も気にならず、目が覚めた時には朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
翌朝、LINEと電話が鳴りっぱなしだった。
スマホを開くたび、画面が通知で埋め尽くされていた。
田島信也:「退職で会社を脅すなんて最低だ。君に実績があるのは桜陽にいるからだ。自分の実力と会社の力を勘違いするな。自業自得だ。退職は承認した。明日から来なくていい。」
“即承認”。それだけが、妙にあっさりしていて、少し寂しかった。
よかった、引き止められるのを心配していた。
「また話し合いを」と言われるのが一番怖かった。だから、これで良かったのだ。
高梨さん:「今月は5日出勤だが、勤務中に椅子1脚、キーボード2台を壊し、デスクの観葉植物も3つ枯らした。5日分の給料を差し引いても、会社に872円の未払いです。これが精算書、社長サイン済み。」
メール添付の精算書に、なぜか「観葉植物」の欄があった。冗談かと思った。
呆れてものも言えない。
「冗談でしょ?」と返信しかけて、やめた。
普通の消耗品を社員に請求するなんて聞いたことがない。
社内チャットで話題にしたら、皆一斉に「そんなことある?」と驚くだろう。
面倒なので、1,000円のPayPay送金をした。
スマホで「送金」ボタンをタップしながら、どこか滑稽に思えた。
メッセージ:「お釣りはどうぞ。」
短く、でも皮肉を込めて送った。
佐伯美咲:「先輩、これからもずっと私の先輩です。また原稿を見ていただいてもいいですか?(キラキラ)」
「顔文字の“キラキラ”」。思わず、吹き出しそうになった。
寝言は寝て言え。
一度も「先輩」と呼ばれたくなかった、と初めて思った。
その時、和田さんから電話がかかってきた。
着信画面に、彼女の写真が小さく表示される。無意識に、すぐ出てしまった。
「中村さん、大丈夫?」
声の優しさに、少し泣きそうになった。
「ぐっすり眠れて、すごくスッキリしました。」
本当に、心の底からスッキリしていた。
こんなによく眠れたのは何年ぶりだろう。
週末のたびに仕事の夢を見て、寝ても疲れが取れなかった。今日は違った。
桜陽に入社してから、週末も祝日も関係なく働きづめ。
年末年始も出社した。「みんなのため」と自分に言い聞かせていた。
毎日、犬より遅く寝て、鶏より早く起きていた。
「鶏より早起き」は、父の口癖だった。いつの間にか自分の生活リズムにもなっていた。
まだ30にもなっていないのに、体は50~60代みたいだった。
健康診断で初めて「要経過観察」と言われた時は、少しショックだった。
「今朝、社長が全社員集めてミーティングしたの。皮肉たっぷりで『古株だからって会社に楯突けると思うな』『過去の実績で好き勝手できると思うな』とか言ってた。」
オフィスのグループLINEには、みんなの不満そうなスタンプが並んでいた。
「中村さん、なんで急に辞めたの?」
和田さんの問いに、胸の奥が少し痛んだ。
田島信也の冷たい態度を思い出すと、心が凍る思いだった。
会議室で浴びせられた一言一言が、今でも耳に残っている。
「もう、割に合わないと思ったんです。」
電話越しに、静かにそう答えた。
私は和田さんにすべてを話した。
今まで隠していた悩みや不満を、ひとつずつ打ち明けた。途中で涙がこぼれそうになった。
彼女も昨日の私と同じくらい怒り、驚いていた。
電話の向こうで、「ありえない」と何度も声を荒げていた。
「信じられない。何年も働いてきたのに、新人より待遇が悪いなんて……」
「こんなのおかしいよ」と、繰り返す彼女の声が心強かった。
私は社長の言葉をそのまま伝えた。
「“新しい血”が必要、とか“市場の現実”とか——まるで他人事みたいだったよ」
彼女は激怒した。「人件費が高いからって、長く貢献した人が損をするなんておかしいよ。私たちは何も悪くないのに。経営者って本当に狡猾ね。」
「自分たちがいなかったら、会社はここまで大きくならなかったのに!」と、和田さんの声が震えていた。
和田さんと愚痴を言い合って、少し気が晴れた。
何度も「うん、うん」と頷き合い、電話を切った時には心が軽くなっていた。
私はすぐに転職活動はせず、家で1週間ゆっくり休んだ。
毎日、コーヒーをゆっくり淹れて、小説を読みふけった。朝の散歩が、これほど心地いいとは。
その間、桜陽で事件が起きた。
和田さんからのLINEで、事態の急変を知る。「大変なことになった」とだけ書かれていた。
佐伯美咲は自信満々で原稿を提出。
LINEのグループにも「絶対バズる自信があります」と投稿していたらしい。
動画が公開されると、たしかにアクセスが急増し、全国的にバズりそうな勢いだった。
「すごい!」と社員の間で話題になった。だが——。
田島信也は途中でシャンパンを開け、「実力と成果は隠せない。桜陽の新入社員は大正解——新しい血が新しいアイデアを生み、会社を新たな高みへ」とX(旧Twitter)で自慢していた。
社長のSNSには、いつも通りの自画自賛の言葉が並んでいた。
佐伯美咲は満面の笑み。
「やった!」とガッツポーズをしていたらしい。
だが、幸せは2時間も持たなかった。
動画が規約違反で通報され、アカウントは7日間の停止処分。
「大変です!」と、社内チャットが騒然となった。
理由:原稿に不適切な内容が含まれ、プラットフォームのガイドラインを越えていた。
ネット上でも「炎上」と呼ばれ、SNSで拡散された。「桜陽終わったな」と冷ややかなコメントが並ぶ。
この停止は深刻だった。
アクセスは激減、フォロワーも離れ、予定していたライブ配信や広告もすべて影響。売上は大幅減、顧客には謝罪と賠償、今後の業務も混乱。
和田さんいわく、「まさかここまで影響が出るとは」と、社員全員が頭を抱えているらしい。
しかも、今回は佐伯美咲が自分の名前だけで原稿を出していた。
「自分一人の成果を証明したかったのかもね」と、和田さんが呟いていた。
私が辞めた後、彼女は「自分一人でバズ動画を作れる」と証明したくてたまらなかったのだろう。
社内チャットには、「どうするんだ」「責任は?」と厳しい言葉が飛び交っていた。
だが、見事に裏目に出た。
新人の焦りと自信が、逆に大きな失敗を生んでしまった。
結論:新人は経験不足で大失敗。
「やっぱり、現場の積み重ねが大事なんだよ」と、和田さんがため息交じりに言っていた。
桜陽は業界の笑いものになった。
ネットニュースにも取り上げられ、匿名掲示板で話題になった。「人事の目利きが甘すぎ」と揶揄された。
田島信也は激怒し、佐伯美咲をみんなの前で叱り、彼女は泣き崩れた。
オフィスの片隅で、嗚咽が響いていたという。
3ヶ月分の歩合も差し引かれたという。
「歩合まで引かれるなんて…」と、社員の間でもざわつきが広がっていた。
ちょうど和田さんがこの話をしてくれた直後、佐伯美咲から電話がかかってきた。
スマホの着信表示に、彼女の名前が浮かぶ。私は一瞬だけ躊躇したが——
私は鼻で笑い、通話ボタンを押した。
呼び出し音がやけに長く感じられ、窓の外の雨音が遠くで響いていた。静かな間が、胸の奥に広がる。
「さて、どんな言い訳が飛び出すのか——」と心の中でつぶやきながら。
この先、私の人生にどんな逆転劇が待つのか。
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