第2話:数字が指に焼き付く朝
人事部は数秒でメッセージを取り消したが、私はしっかり見てしまった。
消えたメールの残像が、まぶたの裏に焼きつく。人事の高梨さんが、普段通りそそっかしいのを知っているだけに、今回も「うっかり」で済ませてしまうのだろう。
佐伯美咲、先月の実際の支給額:181,160円。
数字の羅列が、やけに現実的で、重かった。「いち、はち、いち、いち、ろく、ぜろ」。心の中で何度も繰り返す。その数字が指先に焼き付くようで、手のひらにじっとりと汗がにじむ。
頭の中が真っ白になった。
一瞬、社内のざわめきやコピー機の音が遠のいた。視界の端がぼやけ、息が浅くなる。
会社で一番の古株なのに、皆勤手当を入れても私の月給は8万円ちょっと。
数年前、残業代や手当がついてもたったこれだけ。通帳に振り込まれる金額を見て、毎月肩を落とす。
なのに、入社3ヶ月の新人は何も分からず、私の指導が必要なのに、私より10万円も多くもらっている。
どんな計算をしたらそうなるのか。常識では考えられない。心の中の疑問符がどんどん膨らむ。
まるまる10万円。
ため息が漏れる。「まるまる」とは、これほど重たい言葉だっただろうか。
こんな理不尽があっていいの?
心の中で、何度も問い直す。いや、何度問い直しても答えは出ない。
6年前、私が桜陽メディアに入社したとき、社員はほんの数人しかいなかった。
古びた木造アパートの一室。冬はすきま風が足元を冷やし、畳の隙間から冷たい風が忍び込む。石油ストーブの匂いが冬の朝を思い出させ、夏は扇風機が一台だけ回っていた。暑い日は麦茶が配られ、畳の感触が足に残っている。
オフィスは古びた木造アパートの一室。
靴を脱いで上がる玄関に、コーヒーの匂いがしみついていた。狭い部屋に折りたたみの机を並べて、みんなで肩を寄せ合って仕事をした。
コピーライティング、運営、撮影、編集——時には出演まで、何でもやった。
撮影用の照明を自分で組み立て、背景用の布を100均で買ってきたこともあった。台本を書きながら「出演も頼める?」と無茶ぶりされ、苦笑いで応じたあの日々。
夜遅くまで頭をひねって台本を書き、面白い内容を作ろうと必死だった。最高の映像を撮るために街中を走り回り、数十秒の動画のために7~8時間パソコンに張り付いて編集したことも数え切れない。
深夜のコンビニで買ったおにぎりを片手に、目をこすりながら編集ソフトと格闘。蛍光灯の下、仲間と静かに「あと少し」と声を掛け合った。
努力は報われた。
公開した動画が初めてバズった夜。みんなで缶コーヒーを片手に乾杯した。SNSの通知音が鳴り止まなかった。
いくつかの動画がバズり、桜陽はショート動画業界で急成長した。
「次はもっとすごいのを作ろう」と、全員が目を輝かせていた。あの時の熱気は、今でも忘れられない。
今やTikTokのフォロワーは100万人を超え、
朝礼で数字を聞くたびに、胸の奥が誇らしくなった。
会社はどんどん大きくなった。
かつての狭い部屋は、いつの間にか遠い記憶になった。来客も増え、受付嬢も置かれるようになった。
オフィスも高級ビルに移転した。
ガラス張りの窓から新宿の街並みが見下ろせる。エレベーターにはカードキーが必要になり、セキュリティが格段に上がった。
かつて一緒に会社を支えた仲間はみんな次々と辞めていった。
「次の道を見つけた」と去っていく背中を、何度見送っただろう。
残ったのは私だけ。
私が唯一の“生き証人”だ。自分でも、しがみつき過ぎたかなと、時々思う。
私は自分の存在が、少なくとも会社の柱だと思っていた。
「中村さんがいれば安心」と、誰かに言われたこともある。その言葉を心の支えにしてきた。
だが、今日、現実が私を打ちのめした。
何もかもが崩れていくような、そんな感覚だった。
複雑な気持ちで向かいの佐伯美咲を見る。
心のどこかで、「なぜあの子が?」と問いかけてしまう自分がいる。
彼女はファミマのロゴ入りカップのタピオカミルクティーを指でくるくる回しながら、キーボードを叩き、LINEの通知音がピロンと鳴るたびに口元が緩む。時折唇をすぼめてクスクス笑っている。
彼女の周りだけ時間がゆっくり流れているようだった。
明らかにサボってLINEでチャットしているのだ。
誰の目にも明らか。でも、注意すれば「時代遅れ」と陰で言われるかもしれない。そんな空気が今の職場にはある。
その間、私は自分の山のような仕事を後回しにして、彼女の誤字脱字だらけの原稿を直してやっている。
朱ペンで添削し、コメント欄に「ここはもう少し具体的に」とアドバイスを入れる。自分の本来の業務はどんどん後回し。
考えれば考えるほど腹が立つ。
自分でも気付かぬうちに、マウスを強く握りしめていた。
考えれば考えるほど悔しさがこみ上げる。
心臓がドクドクと鳴る。深呼吸しようとしても、うまく息が吸えない。
私は突然立ち上がり、怒りを飲み込みながら、社長室へ向かった。
椅子のきしむ音がフロアに響き渡った。何人かがちらりとこちらを見るのを感じた。
「社長、どうして新人の佐伯美咲の給料が、私——6年勤めた主任の給料の2倍以上もあるんですか?」
ノックもそこそこに、扉を開けてしまった自分に驚いた。けれど、もう止まらなかった。
社長室の重いドアが鈍く響き、足元のカーペットが沈み込む。社長の机上には高級な時計とボールペンが並び、視線が思わずそこに吸い寄せられる。緊張で手汗がにじみ、心臓が耳元で鳴るようだった。
田島信也社長は最初驚いたようだったが、すぐに眉をひそめた。
「中村さん、うちは給与の機密保持規定があるだろう。他人の給料を詮索するなんてどういうつもりだ?」
社長の声が静かに低くなり、空気が一瞬で冷えた。
この先、何が待ち受けているのか、私自身にも分からなかった。