第2話:離婚の電話と失われた日々
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離婚に同意した日は、ごく普通の午後だった。
湿った空気とアイスコーヒーの苦味が部屋に漂っていた。仕事帰り、駅からの帰路はいつもと変わらない道のり。私は佐藤美咲の番号に電話をかけたが、出たのは高橋蓮だった。
「はい?」
「佐藤美咲をお願いします。」
「あ、美咲?今シャワー入ってるけど、何か伝えとこうか?」
彼の声は、いつものように率直で、どこか余裕と所有感が混じっていた。自分こそが彼女の中心だと言わんばかりの自信が声に滲む。
受話器越しの沈黙に、胸の奥がじくじく痛んだ。だが、もう取り乱す自分には戻りたくなかった。
以前なら、私は怒鳴り散らし、ヒステリックに高橋蓮を追い払おうとし、美咲と話させろと叫んでいた。
そんな過去の自分が頭をよぎる。受話器越しに声を荒げていた情景、あのどうしようもない苛立ち。
だが今は、彼しか彼女に届かないことをよく分かっていた。
もう、前のように彼女に一方的に電話を切られ、狂ったように一人残されるのは嫌だった。
「前に彼女が離婚したいと言ってたけど、俺も同意する。」
私は冷静に伝えた。
高橋蓮は一瞬黙り、信じられない様子で繰り返した。
「離婚に同意したのか?」
「ああ。」
そう言い終えると、ガサガサという音が聞こえた——
きっと電話を佐藤美咲に渡したのだろう。
すぐに、心地よいがどこか冷たい彼女の声が耳に届いた。
「私よ。」
その声を聞いた瞬間、心の奥に沈めたはずの未練が、ふっと浮かび上がる。分かっていた。
彼女の声を聞くと、少しぼんやりしてしまった。
結局、半年前に彼女がマンションを出て高橋蓮と暮らすようになってから、私たちは一切連絡を取っていなかった。
そのとき彼女が最後に私に言ったのは——
「直樹、離婚しましょう。あなたが同意しないなら、別居して訴訟を起こすから。」
半年経った今、私はついに折れた。
「蓮から聞いたけど、あなた、私と離婚したいの?」
私が黙っていると、佐藤美咲が先に口を開いた。
きっと彼女は眉をひそめていたのだろう。その声には困惑がにじんでいた。
その困惑がどこから来るのか、本当に理解できなかった。
離婚を言い出したのは彼女じゃなかったのか?
だが今さら、誰が言い出したかなんて議論したくなかった。
私は小さく返事をした。
「時間があれば会って、離婚協議書にサインしよう。」
そう言って、電話を切った。