第3話:写真のない壁と失われた誇り
怒りがこみ上げ、私は顔をしかめた。
呼吸が浅くなり、背中に冷たい汗が流れた。拳を握りしめてしまうのを、必死でこらえた。
「君のお父さんとは何年も取引してきた。こんな値段は一度もなかった。」
「君が勝手に決めることじゃない。お父さんに話してくれ。」
「本当にお父さんの決定なら、私は黙って帰る。」
言い終えたあと、自分の声が微かに震えていたのに気づいた。
翔太はまだ若いから、私は彼に怒りをぶつけたくなかった。
だが、これ以上踏み込まれれば、私も黙っていられない。
それに、大野正道との関係は商売以上のものだった。
彼とは互いの苦しい時代を知っている。家族ぐるみの付き合いでもあった。
私が漁場を始めたばかりの頃、経験もなく、粗悪な稚魚を掴まされてしまった。
あの冬、厳しい北風の中、私は何度も池の水を掬っては、死んだ魚を見つめていた。
魚が手のひらほどにも育たないうちに、池の魚は全滅した。
肩を落とし、家に帰ると、妻も黙って湯呑みを差し出してくれた。家計は火の車だった。
当時、大浪潮はただの海鮮居酒屋で、大野正道も包丁を握る小さな店主だった。
彼は自分の手で毎日魚をさばき、店の掃除から仕入れまで全部一人でこなしていた。
彼は五万円で私の全滅した稚魚を買い取り、小キンキの唐揚げにして売った。
「これが本当の北海道の味だ」と笑って言い、私の不良在庫を一掃してくれたのだ。
それが意外に美味しくて、店は大繁盛。
常連たちが「今日はキンキあるか?」と並び始めた。
そこからキンキが店の看板料理となった。
この一品が、店の命運を大きく変えたのだった。
私は唯一の納品業者となった。
正道さんから「田村さんの魚が一番」と太鼓判を押された日のことを、今でもはっきり覚えている。
その五万円で私は立ち直り、池を掃除し、信頼できる稚魚を仕入れた。
家族とともに池の底を洗い直し、もう一度ゼロからやり直す覚悟を決めた。
その後、養殖技術を磨き、各地で学び、品種改良や水質・餌の管理も科学的に行った。
青森や三重まで足を運び、先進の技術を学び続けた。ノートには専門用語がびっしりと書き込まれていた。
やがて、私は函館一のキンキ養殖業者となった。
市場の仲買人からも一目置かれ、「田村さんのキンキは他と違う」と言われるようになった。
私だけが、2キロ以上の半天然・高級大キンキを育てられた。
このサイズ、この脂の乗りは、簡単には真似できるものではない。
大野正道の五万円には今も感謝している。彼には最優先で、一番大きくて色の良い魚を選んで納めてきた。
「田村さん、これが一番のヤツだな」と言われるのが、何よりの喜びだった。
何よりも、他より常に2割以上安く、何年も値上げしなかった。
「世話になったから」と、相場が上がっても値段を据え置いたままだった。
彼は蒸しキンキで全国料理コンクール一位を取り、その評判で大浪潮料亭を開き、大繁盛した。
新聞の地方欄に記事が載り、地元のラジオでも紹介された。私も陰ながら誇らしく思っていた。
開店祝いには、私は一番大きなキンキを贈り、二人で店の前で魚を持って写真を撮った。
その時の魚は、まるで自分の子供のように誇らしかった。
その写真は拡大して一枚は店のメインホールに、一枚は私の漁場に飾った。
大浪潮のメインホールを訪れる常連客たちは、あの写真の前で「これが伝説のキンキか」と囁いた。
私は店の壁を見上げた。
店の入り口に飾られていたあの写真が、ふと気になって視線を向けた。
思わず足が止まり、写真の前で立ち尽くした。もう、あの頃には戻れないのだと痛感した。
だが、写真はなくなり、彼と息子の写真に変わっていた。
今は、翔太と正道さんが並んで、満面の笑みで写っている写真にすり替えられていた。
二人とも腹がはち切れそうに大きかった。
幸せそうな笑顔が、逆に私の胸に刺さった。
翔太はタバコを深く吸い、私の顔に煙を吹きかけた。
その仕草が妙に大人びて見えたが、煙の向こうで彼の目は冷たかった。
「田村剛、何もかも正直に言うのは面白くないだろ。」
「田村さんのキンキはいつも1キロ3千円だ。」
「親父はずっとお前からしか買わなかったが、どれだけぼったくられてきたか分からない。」
「俺なら、お前からは一匹も買わない。」
「でも親父は縁を切れないんだよ。」
「今日の魚を千円で買うのは、お前が今まで不正をしてきたことへのお灸だ。」
「明日からは3千円だが、優先してやるよ。」
翔太の口調には、都会育ちの若者特有の軽さがあった。だが、その裏にはどこか悲哀も滲んでいた。
煙でむせながら、私はますます顔が曇った。
口の中が苦く、まるで古い油を飲み込んだような気持ちだった。
最近、佐藤という若者もここ数年キンキを売っているが、彼の魚は私の試験池で死んだものだけだ。
佐藤は町内の若手だが、漁の腕も知識もまだまだで、正規品には到底及ばない。
養殖技術の研究のため、私は試験池で様々な餌を試す。その過程で魚が死ぬこともある。
死んだ魚をどうするかも、養殖業者にとっては悩みどころだった。
こうした魚は食べても安全だが、死んだ魚は缶詰にするしかなく、唐辛子や山椒などの強い味付けが必要だ。
「死に魚は缶詰しかない」と先輩から言われたのを思い出す。風味の劣化をどうごまかすかが全てだった。
蒸しても生臭くて食べられたものではない。
刺身や蒸し料理にできる代物ではない。味も見た目も雲泥の差だ。
翔太は分かっていないが、大野正道ならその違いが分かるはずだ。
正道さんの舌なら、きっと一口で見抜くだろうと私は信じていた。
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