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裏切りの料亭と偽りの絆 / 第4話:評判の崩壊と新たな決意
裏切りの料亭と偽りの絆

裏切りの料亭と偽りの絆

著者: 山本 千尋


第4話:評判の崩壊と新たな決意

私は再び店の写真壁を見て、全てを悟った。

思わず目を細め、昔の思い出を振り払った。時代は変わったのだと、改めて痛感した。

これは大野正道の考えに違いない。佐藤の値段を使って私に圧力をかけているのだ。

「値切り」は商売の常でもあるが、信頼を土足で踏みにじるやり方に、私は心が冷えた。

この数年で彼の店は大きくなり、私の最大の取引先となった。

昔は一膳の焼き魚から始まった店が、今や雑誌やテレビにも取り上げられるほどになった。

蒸しキンキは有名で、遠方からも客が集まった。

ネットで「函館 蒸しキンキ」と検索すれば、必ずこの店の名前が出てくるほどだ。

その料理目当てで多くのグルメブロガーが訪れ、大野正道の評判はうなぎ登りだった。

若い食通たちが、インスタグラムに料理写真をあげては、「絶品」と持ち上げていた。

人はそうして慢心するものだ。

あの日、二人で小さな看板を下げていた頃を思い出し、ふっとため息がこぼれた。

昔は魚を納品に行くと、大野正道は必ず顔を出して少し話してくれた。

「今日はいい天気だな」と笑いながら、私にお茶を一杯出してくれたものだ。

だが最近は全く姿を見せない。

暖簾の奥に正道さんの影がちらつくことすら、なくなってしまった。

インタビューでも彼はこう自慢していた。

「うちは曾祖父が宮内庁の料理人だった。正直、料理は素材に左右されない。」

「人参一本でも、俺にかかれば高麗人参の味にできるよ。」

その言葉が、新聞の切り抜きとして私の目にも入った。寂しいやら、虚しいやら、複雑な気持ちだった。

そう思うと、もう何も言いたくなかった。私は作業員にバケツをトラックに積むよう指示した。

「いい、積め。」と短く伝えた。作業員たちはうなずき、慣れた手つきでバケツを持ち上げた。

魚が腐っても、彼には売らない。

その決意は、静かだが確かなものだった。

死んだ魚で看板料理が作れるか、見ものだ。

私の中に、意地と悔しさが入り混じった炎が燃え続けていた。

私は車のドアを閉め、走り去った。

発進の時、ハンドルを強く握りしめていた。フロントガラス越しに、翔太がこちらを睨みつけているのが見えた。

翔太は私の車に向かって、つばを吐きかけた。

その行為がどれほど浅ましく映ったか、本人には分からないのだろう。

バックミラー越しに見ると、佐藤が大きなバスケットに死んだ魚を入れて運んでいるのが見えた。

彼の歩き方には自信がなかったが、翔太は満足げにうなずき、手招きして彼を店内に入れた。

私が去るや否や、佐藤が魚を納めていた。大野正道は最初から私を切るつもりだったのだ。

私は唇を噛みしめ、アクセルを踏み込んだ。

キンキが1キロ3千円と安くても、飲食業で一番大事なのは評判だ。

北海道の食の世界では、「評判を落とせば一巻の終わり」と誰もが知っている。老舗料亭でも例外ではない。

大野正道も年を取って、判断が鈍ったのだろう。

かつての勘の鋭さが、今はもう失われてしまったのかもしれない。

漁場に戻ると、バケツのキンキはすべて死んでいた。

水面に浮かぶ魚たちの赤い腹が、無念さを物語っていた。

百匹余り、数十万円分のキンキが一瞬でパーだ。

ため息をつきながらも、私は魚たちに「すまなかった」と心の中で詫びた。

作業員たちは死んだ魚を餌用にミキサーにかけようとしていた。

「これ、もったいないですね」と誰かが小さくつぶやいた。

だが私は止めた。「この魚はまだ役に立つ。吐き出したものは、必ず食わせてやる。」

「これは、私の意地だ」と小声で付け加えた。作業員たちは目配せし、静かにうなずいた。

私は彼らにキンキを冷蔵庫に移させた。

冷蔵庫の扉が重く閉まる音が、妙に響いた。

作業が終わると、私はじっくり考え込んだ。

夜の漁場には波の音しか聞こえない。小さな事務所で一人、長い間腕を組んで座り込んだ。

漁場の生産量は年々増えている。今日の件がなくても、そろそろ販路を拡大する時期だ。

「ここが踏ん張りどころだ」と自分に言い聞かせた。新しい時代に挑戦する覚悟が必要だった。

私はこれまでの利益で液体窒素輸送車を数台買い、缶詰工場も手に入れた。

全国に生きたまま魚を届けるシステムが、ようやく整ったのだ。

これで長距離の注文も心配いらない。

内陸の料亭数軒から仕入れの打診があったが、輸送の問題で断っていた。

だが今なら、その壁も乗り越えられるはずだと確信していた。

この機会に、彼らを函館に招待し、漁場を見学してもらい、供給契約を結ぶことにした。

「一度、私の池を見てください」と丁寧に電話で案内した。

皆、私の池の太ったキンキを絶賛した。

「すごいですね、これが田村さんの魚ですか」と驚きの声が上がった。誇らしい瞬間だった。

昼食時、誰かが「せっかくだから大浪潮で有名な蒸しキンキを食べよう」と提案した。

私は一緒に行った。

内心、複雑な気持ちだったが、自分の魚の末路を見届ける義務があると思った。

だが、席に着くと店内は半分も埋まっておらず、個室もほとんど空いていた。

いつもなら賑やかな声が響く店内が、妙に静かだった。給仕の女性もどこか所在なげにメニューを差し出した。カウンターの奥で、氷がグラスに当たる音だけがやけに大きく響く。

かつては満席で、予約を断るのが自慢だったのに。

「ここまで落ちるとは…」と、誰かが小声でつぶやいた。

私は店員を呼んで注文した。「蒸しキンキを一つ。」

「田村さん、まだあの味が残っているのかい?」と誰かが冗談めかして聞いた。

もう大野正道と取引していないが、今の看板料理がどんなものか確かめたかった。人参を高麗人参の味にできると言っていたし。

厨房からは以前のような活気が感じられず、何となく空気が重かった。

店員は困ったような顔をした。「お客様、うちのピリ辛キンキの唐揚げはいかがでしょうか。特別割引中です。」

その表情から、何かを隠しているのがはっきりと分かった。

まさか大浪潮が割引で客を呼ぶとは。

昔は「値下げなんてしない」が信条だった店なのに。時代は変わったものだ。

飲食業の人間なら分かる。肉が新鮮でない時は、香辛料や油でごまかすのが一番だ。

唐揚げやピリ辛ソースが、鮮度の落ちた魚の定番になっていることを、同業者なら皆知っている。

私は手を振った。「看板料理を食べに来たんだ。値段は気にしない。」

「本物の蒸しキンキを食べに来たんですよ」と続けた。

他の店主たちも、評判を聞いて来たと言ってうなずいた。

皆が「せっかくだから」と頷き、店員も観念したように伝票に書き込んだ。

店員は仕方なく注文を取った。

しばらくして、厨房から湯気の上がる音が微かに聞こえた。

やがて、湯気の立つ蒸しキンキが運ばれてきた。

白い陶器の大皿に盛られたキンキが、食卓の真ん中に置かれた。湯気の立ち昇る香りに、誰もが一瞬期待を込めた。

テーブルの全員が飲食業界の重鎮で、料理人も多い。

互いに目配せをしながら、料理を見つめた。

一目で分かった——魚の目は落ちくぼみ、身は灰白色で、所々皮が剥がれていた。

その様子は、プロでなくても「鮮度が落ちている」と分かるほどだった。

皆すぐに察した。これは死んだ魚で作ったものだ。誰も箸を伸ばそうとしなかった。

気まずい沈黙が、テーブルを包んだ。誰かが小さくため息をついた。

その時、隣のテーブルから怒鳴り声が上がった。

空気が一気に張り詰めた。

チェック柄のシャツを着た男がテーブルをひっくり返した。

小皿が床に転がり、周囲の客も息を呑んだ。

「店長を呼べ!」

店内が騒然とした。

「はるばる山形から何百キロも来て、腐った魚を食わされたのか?」

その声には、失望と怒りが詰まっていた。

「今日は、俺とフォロワー全員に説明してもらうぞ!」

スマートフォンを高く掲げ、動画を撮りながら男はさらに声を荒げた。SNSでの拡散は避けられないだろう。

その場にいた全員が、料亭の末路を予感した。

誰もが、その夜の大浪潮料亭の運命を、SNSのタイムライン越しに見守ることになるとは——まだ誰も知らなかった。

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