第2話:信頼と裏切りの記憶
灼熱の太陽の下、私は汗まみれだった。
じりじりと焼ける日差しに、首筋のタオルもすぐびっしょりになる。遠くでは蝉がけたたましく鳴いており、函館の短い夏が、漁場の空気にむせ返るような熱気をもたらしていた。
バケツの中のキンキを見ると、酸素不足で何匹かはすでに腹を上にしていた。
水面に浮かぶ紅い腹が、私の胸をさらに重くする。キンキの鱗が太陽を反射して、やけに寂しく見えた。
胸が締め付けられ、私は再び大浪潮料亭のマネージャー・小林に急かさずにはいられなかった。
「小林さん、早くお願いできますか」と声をかけたとき、自分でも苛立ちが滲んでいるのが分かった。
「早く中に運んでエアレーションしてくれないと、このバケツの魚が全部死んでしまうよ。」
「それとも、はっきり言ってくれ。いらないなら、まだ間に合うから持ち帰る。」
私は両手でバケツを抱え直し、立ったまま彼の返事を待った。
だが彼は動こうとせず、魚を中に運ぶことも、私を帰すこともなかった。
小林はいつも腰が低く、笑顔で応対してくれたが、この日は目を合わせようともしなかった。
「田村さん、蒸しキンキはうちの看板料理です。毎日昼には何十匹も使うので、絶対に必要なんです。」
「ただ、今日は店主が自分で魚を検品してから受け取るようにと特に言われまして、私たちには決められません。」
彼は謙虚なふりをしてセブンスターのタバコを差し出したが、バケツの前に立って道を塞いだままだった。タバコの煙が湿った空気に溶け、魚の生臭さと混じり合う。
小林の手元にあるセブンスターの箱が妙に場違いに見えた。煙草の匂いがバケツの魚に移らぬよう、私は無意識に少し距離を取った。
小林の言うことも一理ある。時々、大事な客が来る時は魚の質を確認することもあった。
私も、かつて政財界の大物や芸能人が来ると聞けば、念入りに選んで持ち込んだことを思い出した。
だが、何年も付き合ってきた私は、いつも一番大きくて質の良いキンキを選んで納めてきた。
信頼が積み重なる中で、いつしか「田村さんの魚なら大丈夫」と言ってもらえるようになった。それが何よりの誇りだった。
儲けが少なくても、関係と自分の信用のため、粗悪な魚を納めたことは一度もない。
胸を張って納品できる魚しか持ち込まなかった。商売人としての矜持があった。
それなのに、こんな疑い方をされるとは。
じわりと悔しさがこみ上げてきた。私の信念が、いとも簡単に疑われてしまう現実が苦しかった。
そう思うと顔が曇った。
眉間にしわが寄り、つい視線が地面に落ちた。店の入り口に吊るされた提灯が、風に揺れている。
私はタバコを断り、バケツの周りを焦りながら歩き回り、店主の大野正道に何度もLINEで連絡を入れた。
スマートフォンを握る手が汗ばみ、既読マークがつくたび、ため息が漏れた。
だが、毎回既読スルーだった。
短く「お疲れ様です」と送っても、返事はなかった。まるで壁に話しかけているようだった。
店が開店する頃になって、ようやくレクサスが店先に停まった。
黒塗りの車体が眩しく、近隣の住人もちらりと視線を向ける。札束のにおいがする車だった。
そこから出てきたのは、大野の息子・大野翔太だった。
スーツの襟を整えながら、ゆっくりと車から降りてきた彼は、以前とはまるで別人のようだった。
私は急いで彼をバケツのところに連れて行った。
「あの、翔太くん、ちょっと…」と声をかけると、彼は面倒くさそうに頷いただけだった。
幸い、酸素不足で元気はなかったが、エラはまだ動いていた。
ギリギリ間に合うかもしれない、と私は心の中で祈った。
私の不注意だった。普段は納品したらすぐ帰り、月末に精算するだけで、入店を断られたことは一度もなかったから、今日はエアポンプを持ってきていなかった。
まさかこんな事態になるとは思わず、油断していた自分を責めた。
「翔太くん、今日の魚は全部私が自分で選んだ。どれも2キロ以上の極上の大キンキだ。」
「見てくれ。問題なければ早く中に運んで、昼の営業に間に合わせてくれ。」
私は焦って声をかけた。
言葉の端々に、どうしても緊張がにじんでしまう。
私は彼の父・大野正道と二十年近く付き合ってきた。翔太が小さい頃から知っている。
あの頃の翔太は、店の裏口から顔を出して「田村さん、海に連れてってよ」と無邪気にせがんだものだ。
子供の頃は私の袖を引っ張って、漁場に連れて行ってくれとせがんでいたものだ。
船の上で、海風に吹かれてはしゃいでいた笑顔を思い出すと、胸が締めつけられる。
だが今や、翔太は私を横目で見て、私の手を避けた。
私が差し出したバケツの取っ手を、無言で自分の方に引き寄せ、目線も合わさずにいた。
彼はつま先で魚バケツをつついた。
「ちっ」と小さく舌打ちし、バケツのふちを靴先で小突いた。
酸素不足で、魚はもう以前のように元気に泳いでいなかった。
「お前の魚、もうほとんど死んでるじゃん。まあ、親父の顔立てて、引き取ってやるよ。」
冷淡な声が返ってきた。魚の様子を見る手つきにも、愛情のかけらも感じられなかった。
「規定で、こんな魚は受け取れないんだ。」
「でも、うちの親父と長年付き合いがあるから、手ぶらで帰すわけにもいかない。」
彼の目は値踏みするように私を見ていた。恩義の欠片もなく、ただビジネスライクな態度だけが前面に出ている。
「1キロ千円で引き取る。中に運べ。」
一方的な通告だった。
小林がうなずき、バケツを運ぼうとしたが、翔太が止めた。
「魚屋なんだから、俺たちのところに届けるのが当然だろ。」
そして顎で私を指し、「さっさと運べよ。手間取るなよ。」と言った。
その言い方に、私は言葉を失った。あの頃の翔太は、こんな子ではなかったはずなのに。
胸の奥で何かが音を立てて崩れる気がした。あの無邪気な少年が、こんな冷たい目をするなんて——。視界がかすみ、喉がひどく渇いた。