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裏切りの御曹司 / 第2話:英雄の転落
裏切りの御曹司

裏切りの御曹司

著者: 森川 ことり


第2話:英雄の転落

彼の酸素ボンベはほとんど空だった。

マスク越しに彼の荒い呼吸が伝わり、急いで新しいボンベを装着した。彼の手は震え、私の目を見て必死に頷いていた。

私はすぐ新しいボンベを渡し、無線で藤堂氏に報告した。

「こちらタケル、本人発見。意識あり。救助開始します」

地上の皆が息子の生存を知り、歓声を上げた。

無線の向こうから、嗚咽混じりの「ありがとう!」が響く。その瞬間だけは、私も胸をなでおろした。

私は持参したグラインダーで、藤堂涼真の腕を挟んでいた岩を削り始めた。

水中でグラインダーを扱うのは至難の業。振動が彼の腕に伝わらないよう、慎重に角度を調整した。

長時間の血流不足と酸素欠乏で、彼の腕はすでに感覚がなかった。

手首から先は青白く、少し触れただけで冷たい。「まだ痛みは?」と尋ねると、彼は小さく首を振った。

切断を防ぐため、私は力を強めて作業した。その分、自分の酸素も激しく消耗していく。

呼吸音が徐々に早くなり、体力の消耗を自覚する。だが彼を救うためには、一刻も早く終わらせなければならなかった。

三十分後、ようやく彼は解放された。

私はホッと息をつき、彼の肩を軽く叩き「頑張ったな」と声をかける。彼は力なく頷き、涙を滲ませていた。

彼を連れ帰ろうとしたその時、突然、無言で洞窟の奥へ進もうとした。

水中ライトの先、彼の目にはまだ闘志が宿っていた。唇を固く結び、一歩一歩奥へ進もうとする姿は、まるで何かに取り憑かれているようだった。

私は慌てて帰還を示すサインを送った。

ダイバー同士のハンドシグナルで「帰るぞ」と何度も合図したが、彼は目をそらし、なおも進もうとした。

私は強引に彼を引っ張って帰ろうとした。

肩を掴むと、彼は力を振り絞って私の腕を振り払った。水中の抵抗が、お互いの動きを鈍くする。

彼は激しく抵抗し、私のライトを叩き落とし、酸素マスクまで外そうとした。

視界が闇に沈み、マスク越しの呼吸音だけが響く。私は必死に冷静さを保ち、無理やりマスクを付け直した。

「ここで終わるわけにはいかない」——その思いだけが私を動かしていた。

私はチームメイトに目配せし、一旦折れたふりをした。

藤堂涼真が気を緩めた隙に、背後から彼を気絶させた。

抵抗の力が抜け、彼の身体がぐったりと沈んだ。私は「ごめん」と心の中で呟きながら、最善を尽くすしかなかった。

彼をロープで自分の足に括りつけ、水の抵抗が倍増する中、絶対に生きて帰すと決意した。

心臓がバクバクと鳴り、指先がしびれる。だが後戻りはできなかった。

二時間後、私はすでに限界だった。予備の酸素ボンベもほぼ空だった。

「タケル、しっかりしろ」と自分に言い聞かせ、最後の力を振り絞る。

水面に浮かび、岸にたどり着いた時、全身が痛み、目まいと吐き気がした。

岸辺には救急隊と家族、そして大勢の記者が待ち構えていた。私は担架に乗せられ、救急車へと運ばれた。

数日間入院し、ようやく回復した。

病室の窓から朝日が差し込む。ようやく穏やかな日常が戻る——そう、淡い希望を抱いた。

藤堂涼真も無事救出され、腕も助かり、数日後には自然に目を覚ました。

医師は「大事に至らず、本当に幸運でした」と言い、私も安堵した。

藤堂氏は多くのメディアを連れ、涙ながらに私に感謝した。

テレビの取材で「高瀬先生には一生頭が上がりません」と語ったその瞬間だけは、私の努力が報われた気がした。

これで一件落着だと思った。

だが三日後、藤堂涼真が目覚めて最初にしたのは、私が殺そうとしたとメディアに訴えることだった。

静かな病室でテレビを見ていた私は、あまりの展開にリモコンを手から落とした。

彼の家はもともと権力と影響力があり、この告発はたちまちネットを騒がせた。

ワイドショーは連日この話題を取り上げ、ネット掲示板には匿名の書き込みが殺到した。「こういう人間は二度と表に出るべきじゃない」とコメンテーターが苦々しい顔で語る。

記者たちは病院に殺到し、スクープを逃すまいと群がった。

玄関前にはテレビ局の車がずらりと並び、記者たちが朝から晩まで待機。病院スタッフも苛立ち、患者や家族も不安げな表情を浮かべていた。

藤堂涼真は青白い顔で、カメラに向かって作り話を語った——

「ご存じの通り、ダイバーの高瀬タケルは国内トップの世界記録保持者です。今回私が入った紅葉洞窟は、まさに彼が記録を打ち立てた場所でした。だから彼は私を見つけた時、まず記録を破ろうとするなと叱責したのです。高瀬はもうすぐ国際大会に出場するので、名声を奪われたくないはずです。私が言うことを聞かないと、今度は殺そうと——背後から気絶させられました。水中で気絶すれば脳に障害が残る危険があります。経験豊富な彼が知らないはずがありません。今日は皆さんに、高瀬の本性を知ってもらうためにここに来ました。必ず彼を刑務所送りにします」

その姿は、世間が求める“弱者の被害者”像そのものだった。

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