第3話:策略の宴、断ち切れぬ縁
叔母たちの中に座らされ、方言が飛び交う中、何を言っているのか全く分からなかった。時折沸き起こる笑い声が、さらに不安を煽った。
「標準語しかわからなくて、申し訳ありません」と心の中で小さくつぶやく。皆の会話はどこか外野のように感じられた。
美咲は向かい側に立ち、こちらに来る気配もなく、うつむいてスマホをいじっていた。
彼女の細い指先が画面を滑る音だけが、妙に静かに響く。スマホの青白い光が彼女の頬を淡く照らし、周囲の親戚の視線から身を守るようにうつむいていた。
昨日、冗談で「お義父さんは婿を見れば見るほど嫌いになるって言うけど、もしお父さんに殴られたらどうしよう?」と話したら、
「あの人はそんなことしないよ」と笑っていた彼女。あの柔らかい声が頭に蘇る。
彼女は笑って「そんなわけないでしょ。うちの父があなたを食べるわけないじゃない」と言っていた。
冗談混じりのやりとりに、安心していた自分が懐かしい。
まさか今日、半分は現実になるとは思わなかった。
「本当にこうなるなんて……」と心の中でため息。
父親が険しい顔で口を開いた。「もう来たんだから、はっきり言う。私はこの結婚に賛成できない。」
低い声が部屋を満たし、緊張が走る。
「なぜですか?両家で話はついていたはずでは?」
意外すぎて、つい声が上ずる。
「よくもそんなことを言えるな。君の家には騙されたよ。」
心臓が沈んだ。「何か誤解が?どこで騙したと?」
咄嗟に理由を思い浮かべるも、全く心当たりがなかった。
「君の家のことは調べた。君は月収20万円、両親は小さなスーパー経営で月収15万円、家も3軒あるんだろう?」
田舎の人脈の情報網の広さに、少しだけ背筋が冷たくなる。
私はうなずいた。
自分の家計が、こんなに詳しく調べられていたとは。
「それで結納金がたった280万円か?おかしいだろう?」
親戚たちが大げさに笑い出した。
「都会の金持ちはケチだな」「俺ならもっと包むぞ」など、合いの手が続く。
「結納金が少ないと思うなら、相談しましょう。希望額を教えてください。」
必死に冷静を装い、話し合いの道を探した。
父親は指で数字を示した。「660万円、一円もまけない。それに改姓料88万円、披露宴費100万円、親戚一人につき8万8千円のご祝儀も必要だ。弟ももうすぐ結婚するから、県庁所在地でマンションを用意してやれ。大きくなくていい、90平米で十分だ。仕事も世話してやれ。」
現実離れした要求の嵐に、思わず言葉を失う。
隅でゲームをしていた弟を見た。「彼のことも私が面倒を見るんですか?」
淡々とした声で問いかけたが、心の中は混乱でいっぱいだった。
父親は睨みつけた。「家族は助け合うものだろう?これからは君の弟だぞ?」
日本の家父長制の影が色濃く漂う言葉。その重圧に押しつぶされそうになる。
まるで夢を見ているような気がした。今にも『冗談だよ』と笑い出すのではと思ったが、父親は本気で指を折って計算を始めた。
計算機も使わず、指で金額を弾くその姿に、何とも言えない現実味があった。
「結納金と披露宴代で900万円超。県庁所在地の家は1,500万円くらい。合計2,400万円——君の家の資産の半分くらいだな。半分の財産で嫁をもらえるんだから、悪くない取引だろう?」
どこか交渉のような冷たさを感じ、胸の奥がひやりとした。
「でも、うちの3軒の家のうち1軒は田舎の古い家で価値はほとんどありません。もう1軒は両親の自宅で、値上がりはしたものの唯一の住まいなので売れません。」
必死に事情を説明する。頭の中で何度も資産の内訳を思い返す。
「もう1軒はご存知の通り、美咲と私の新居です。市内中心部に買ったばかりで、貯金はほとんど使い果たしました……」
都心の住宅ローンの重さも、田舎の親たちには伝わりづらいのかもしれない。
父親が遮った。「つまり、金は出さないつもりか?」
「さすがに高すぎます。少し減額してもらえませんか?」
心の中では怒りと絶望が渦巻いていたが、なんとか冷静を装う。
「高いと思うのか?」父親は突然テーブルを叩いた。「美咲は大学卒だぞ。去年、うちの町で短大卒の娘でも500万円の結納金だった。君は280万円しか出さないのか?私の面目はどうなる?」
親戚たちのざわめきが、さらに部屋の空気を重くする。
「君の家は一人っ子なんだろう?他に誰に使うんだ?家を売ればいい。田舎に戻れば住む場所はあるだろう。」
都市部に住むことの意味や、親の老後の不安までを理解してもらうのは難しいのだろう。
私も腹が立ってきた。「田舎の医療環境を考えたことはありますか?両親はもう若くない。何かあった時、すぐに都市部に行けますか?」
怒りを押し殺しながらも、家族への思いがにじみ出る。
「つまり、うちの美咲にはその価値がないと言いたいのか?」
まるで値踏みされているようなやりとり。息苦しさが増す。
無茶苦茶だと思ったが、口論は避けたかった。
もうこれ以上、両家の顔に泥を塗りたくなかった。
美咲は相変わらずスマホをいじっていて、まるで他人事のようだった。
その無表情さに、どこか遠い距離を感じてしまう。
私は2度名前を呼んだが、返事はなかった。
空気が張り詰める中、再度小さな声で呼びかけた。
画面を消してようやく彼女が顔を上げた。喉がカラカラに乾き、呼吸が浅くなっていく。
「何か言いたいことは?」
彼女は目を逸らして「……分からない」と呟いた。
声は小さく、かすれていた。
親戚たちが口々に言った。
「嫁をもらうのに破産するのは当たり前だよ。」
「ニュースでも男女比が深刻だって言ってるじゃないか。結婚できるだけでもありがたいと思いな。」
「660万円が多い?美咲の条件なら880万円でも払う人はいるよ。」
田舎特有の価値観、そして世間体への執着が、こうも露骨に表れるのかと驚いた。
父親はますます満足そうな顔をしていた。
薄く唇を吊り上げ、どこか勝ち誇ったような表情だった。
——これはまるで『桶狭間の戦い』、罠の宴だったのだ。
合戦ではなく、策略の宴。まるで歴史の一場面に巻き込まれたかのような錯覚。
「ご要望は必ず両親に伝えます。今から帰って相談します。」
礼儀正しく頭を下げ、冷静に切り上げた。
父親は大声で「好きにしろ。見送りはいらん。」
冷たい一言。玄関まで誰も立ち上がる気配はなかった。
私はわざと玄関で立ち止まり、美咲が見送りに来てくれるか期待したが、彼女は来なかった。
下駄箱の前でしばらく待ったが、足音ひとつ聞こえず、胸の奥がじんわりと痛んだ。
——この夜、僕の心に初めて「もう戻れない」という影が落ちた。
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