第3話:縁切りの依頼
「吉岡さん、あとどれくらいで着きますか?」後部座席の母親が、私が長く黙り込んでいたのを気にして、恐る恐る尋ねた。
「もうすぐです。あと三十分くらい。」私はカーナビをちらりと見て答えた。今日の目的地は信濃町・金河橋・青松山墓地。墓地といっても、実際は放置された古い墓が集まる場所だ。
春先の山道には、残雪がまだところどころ残り、車窓には枯れ草の影が流れていた。道の端には小さな祠がぽつりぽつりと並び、どこか異界との境目に迷い込んだような心地だった。
母娘を新幹線で信濃町まで連れてきて、タクシーを探したが、住所を言うとどの運転手もドアすら開けてくれなかった。仕方なく自分たちでレンタカーを借りた。
駅前のロータリーには朝のラジオ体操の音が流れ、駅舎のベンチには地元の老人たちが新聞を広げていた。どのタクシー運転手も顔を曇らせるのが印象的だった。田舎町の噂話の重さを、久々に肌で感じた。
助手席には私が用意した道具——スコップ、灯油、斧、バール、そしてタンスの下から掘り出した魂打ちの鞭が置いてある。
どれも錆びついたり古びたりしているが、不思議と手に持つと重みが馴染んだ。鞭だけは、まるで生きているかのように艶を帯びている。
こんな仕事は初めてだった。これまでは借金返済のため、不動産業の友人の頼みで「事故物件の浄化」を何度か手伝ったことがある。つまり、人が亡くなった家に泊まり、問題ないと証明する仕事だ。私は幽霊や怪談をあまり怖がらない。報酬さえ良ければどこにでも泊まる。しばらくすると、不動産業界で少し名が知られるようになった。
夜の古びた一軒家で、布団の中から天井の染みを眺める孤独も、今となっては慣れっこだった。
この母娘も仲介業者を通じて私の噂を聞きつけてきた。しかし、彼女たちの依頼は事故物件の浄化ではなく、「縁切り」だった。
その言葉を聞いたとき、どこか背筋にひやりとしたものが走った。「縁」という響きには、日本人特有の重みと怖さがある。
依頼人は村上萌という二十代前半の女性。大学を卒業したばかりで、今は母親の腕の中で丸くなっている。生気がなく、顔色は蒼白で目の下に隈ができていた。
萌さんの細い肩が震え、母親の手を離すこともできない。春なのにコートの襟をきつく握りしめていた。
彼女の話では、三ヶ月前の春のお彼岸を過ぎたころから奇妙な男の夢を頻繁に見るようになったという。最初は恋人が欲しいという願望が夢に現れたのだろうと気に留めなかった。
大学の友人たちのSNSにはカップルの写真が並び、ふとした孤独が心に影を落とした時期だったのだろう。
夢の中で、彼女と男は仲良く旅行したりデートしたりしていたが、男の顔だけはどうしてもはっきり見えなかった。ただ、若くてハンサムだという感覚だけはあった。しばらくして男は「正式に付き合ってほしい」と言ってきた。夢の甘さに酔いしれた村上萌は、ためらわずに承諾した。
夢の中、遠くで鶯が鳴き、どこからか線香の煙がゆらゆらと漂ってきた気がした、と萌さんは寂しげに笑った。
だが、承諾した途端、すべてが変わった。夢は陰鬱で恐ろしいものになった。彼女はよく仏壇のある葬儀場や、穴に埋められた棺、白い墓石の悪夢を見るようになった。逃げようとすると、男は影のようについてきた。
夢の奥で、線香の香りと冷たい土の匂いが混ざり合い、胸が締め付けられたと萌さんは言った。
「約束しただろう?どうして会いに来ない?逃げられないよ、ずっと待ってる…」
村上萌は眠るのがどんどん怖くなり、寝ても悪夢にうなされて叫びながら目覚め、精神が限界まで追い詰められていた。
枕元の時計が深夜三時を指しているのを、何度も何度も見た、と律子さんがこぼした。
母親の村上律子は、あらゆる大病院や心療内科を巡り、薬も色々と試したが効果はなかった。最後は民間療法や霊能者を頼ったが、ほとんどの人が「幽霊の縁(幽縁)」に憑かれていると言った。
近くの寺の住職にも相談し、お守りや塩を枕元に置いたが、むしろ悪夢は激しくなった。母娘の疲弊ぶりは、誰が見ても痛ましかった。
お祓いをしたり紙人形を燃やしたりしたが、悪夢はさらにひどくなった。村上萌は夢遊病になり、現実と夢の区別もつかなくなった。何度もマンションのベランダから飛び降りそうになったこともある。
ご近所の目もあり、律子さんは昼も夜も窓の鍵をしめ、萌さんのそばを片時も離れられなかった。
最近、また夢遊病で歩き回った村上萌が、紙に「信濃町金河橋柳並木通りの端」と書き残していた。村上律子がスマホで調べると、その場所は青松山墓地だった。
消え入りそうな文字で、萌さんが震えながら書いた紙切れを、律子さんは今も財布に大事にしまっている。
その住所をもとに、ある老僧が村上律子に助言した。「陽気が強く、運の強い人に付き添ってもらい、現地で元の持ち主を探し、正午に掘り起こして完全に焼き払え。そうすればこの幽縁は断ち切れる。」
老僧は信濃町の外れの山寺で、静かに数珠を撫でていたという。助言の言葉には、一種の祈りのような重みがあった。
だが、この方法は非常に危険だ。もし同行者が相手を抑えきれなければ、本人も村上萌も二度と戻れなくなる。
古い伝承では、こうした縁切りの儀式は命懸けだとされている。律子さんの目の下の隈が、その苦悩の深さを物語っていた。
そんな危険な仕事を引き受ける人はなかなかいない。村上律子は必死で探し、ようやく不動産仲介業者を通じて私を見つけた。最初は疑った——あまりにオカルトじみている。幽縁は怖くないが、村上律子と村上萌が詐欺師ではないかと心配だった。
律子さんからの電話は、言葉に詰まりながらも必死さが伝わった。私も、過去の苦しみを思い出し、断る理由が薄れていった。
だが、実際に会ってみると、断ることができなかった。村上律子は絶望しきった顔で、かつて私が妻の治療費を求めて必死だった頃と同じだった。彼女は私を見るなり、最後の希望を見つけたように膝をつき、話す前に泣き崩れた。私は慌てて立たせようとしたが、彼女は私の腕にすがりついた。
律子さんの手はひび割れ、スーパーのレジ袋の跡が赤く残っていた。「吉岡さん、もう他に頼れる人がいません。どうか娘を助けてください…」
私は村上萌を見た——長い間、まともに眠れていないのだろう。母を助け起こそうとしたが、力も残っていなかった。
涙でぐしゃぐしゃになった律子さんの顔を見て、胸の奥が焼けるように熱くなった。自分も、あの時誰かに救いを求めていた。
親の愛はどれほど深いものか。私にも娘がいる。
「引き受けます。」私はタバコを指で弾き捨てて言った。「うまくいくか分かりませんが、一緒に行きましょう。」
その時、春風の中にほんのり桜の香りが混じった気がした。
——依頼を受けた瞬間から、何かが動き出した気がした。