第4話:直子の葛藤と蒼月御殿の影
「本当に出て行ったのか?」
冷たい風が高台を吹き抜け、遠くでカラスが羽を整えていた。御所の屋根の上に、雪が音もなく降り積もっている。
軒下には、濃い色の衣を纏った直子が立っていた。
彼女の立ち姿には、すでに少女の面影はなかった。薄墨色の衣が、雪の白さに映えていた。
「お答えします、陛下。藤井乳母は出て行きました。」高橋さんは主の心を察し、「念のためもう一言聞きましたが、藤井乳母は金沢へ行くと申しておりました。」
高橋さんは、慎重な口調で報告を続けた。
「……後悔した様子は?他に何か言っていたか?」
直子の声には、微かな揺らぎがあった。
高橋さんは胸が痛んだ。
ほんの少し目を伏せて、苦しい思いを押し隠した。
「いえ、藤井乳母はただ私に別れを告げただけです。」
静かな返事が、冷たい空気の中に消えていく。
「爵位の話も、不満の言葉もなかったのか?」
直子のまなざしは厳しく、けれどどこか弱さも滲んでいた。
「藤井春乃は何も申しておりません。」
高橋さんの声は揺るがなかった。事実を淡々と伝えた。
美咲皇后の言う通りだ――これは藤井春乃の後退して前進する策だ。
心の奥で、過去の出来事が甦る。御所の世界では、こうした駆け引きは珍しくなかった。
数日もすれば、頭を下げて戻ってきて、喜んで貴婦人の位を受け取り、以後は大人しくするはずだ。
裏切られた者が、結局は戻ってくるのを何度も見てきた。
直子はそういう者を幾度も見てきた。過去の恩を盾に、恥知らずにも褒美をせびる連中を。
彼女の記憶には、そうした場面が幾度も焼き付いていた。
先代陛下が落ちぶれた時、ある者に食事を恵まれた。その後、御所に戻ってその者に十万円を与えたが、本人は足りないと不満を漏らした。
恩を受けたはずの者が、さらなる見返りを求めてくる——それが御所の日常だった。
その者は「先代陛下は困窮時に水しか飲めず、木の皮を齧った」と吹聴し、恩知らずでケチだと触れ回った。
噂話はすぐに広まり、御所の評判もまたすぐに変わっていく。
先代陛下は激怒し、その者を追放した。
そのときの緊張感が、今でも胸に残っている。
だが美咲皇后は違った。江家も彼女も、母君との約束を守った。名家の娘で、選ぶ相手も多かったのに、二十六まで待ち続け、老嬢と呼ばれても他の誰とも結婚しなかった。
それは誇り高き選択だった。周囲の視線や噂にも負けず、ただひたむきに約束を守り続けたのだ。
美咲皇后は言った。「下々の者は皆そう。権力者に媚びるか、没落した者に賭けるか。うまくいけば一生安泰。藤井春乃のような者は、忠義を試してみるといい。」
皇后の言葉は、どこか達観していた。
本当に忠義があれば、富も位も気にしない。
直子は、その言葉の真意を探ろうとしていた。
計算高ければ、いずれ後悔して大人しくなる。
裏を返せば、いずれは自分のもとへ戻ってくると思っていた。
だが彼女は何も求めず、嘘をついて去った。
その潔さが、逆に心をざわつかせた。
五日経っても音沙汰はなかった。
時間ばかりが過ぎていく。気がつけば、何度も扉の外を見てしまう自分がいた。
直子は落ち着かなくなった。
心のどこかが、そわそわと騒いでいた。
きっと多くの金銀財宝を持ち出したに違いない。
そんな考えは、どこか自分への言い訳でもあった。
長年御所にいれば、誠実で親切な者でも、多くの主人に重宝され、下々にも慕われ「乳母」と呼ばれる。権勢ある用人や乳母たちは皆、莫大な財を蓄えている。贈り物や下賜品も多く、きっと彼女も相当貯めていたはずだ。
直子の脳裏に、御所での暮らしが鮮明に蘇る。多くの贈り物や褒美の山。その一端でもあれば、きっと暮らしていけるはずだった。
「彼女が御所を出るのを見たのだろう、何か持ち出していなかったか?」
声には、どこか焦りが混じっていた。
「皇后様のご命令で、御所の下賜品は一切持ち出せません。藤井乳母は二十年の奉公で、規定通り三十万円だけ。持ち出したのはそれだけです。」
高橋さんの報告は、規律正しく簡潔だった。
三十万円で何ができる?
心の中で計算しながら、直子は眉をひそめた。
金沢までの新幹線代と生活費を差し引けば、食べていくのもやっとだ。
心配が胸を占める。
まさか自分の嘘を信じて、良い男が待っていると思っているのか?
その考えが、どこか滑稽にも思えた。
「何も持ち出さなかった?みんな彼女に世話になっていたのに、何も貯めなかったはずがない。」
直子は思わず口をつぐんだ。
「確かに皆、乳母様には世話になりましたが、乳母様は決して私たちの物を受け取りませんでした。『御所の下働きは皆哀れな者ばかり』と仰って。出発の際も借りを返していかれたので、三十万円は多めに見積もっての額です。借金を返したら、残る分はほとんどなかったでしょう。」
高橋さんの説明は、どこまでも誠実だった。
直子は言葉を失った。
しばらくの間、沈黙が部屋を包んだ。
重苦しい思いが胸にのしかかった。
息をするのもつらくなるような、重い空気だった。
彼女は様々な可能性を想像していた。
思考は堂々巡りを始めた。
藤井春乃は計算高く、二十年も自分に尽くしたのは将来のためだと。
疑いの影が、何度も胸を過った。
だがもし――最初から本当に心から尽くしてくれていたのなら?
その可能性が、心に深い傷を残した。
もし本当に心を尽くしてくれていたのに、自分がそれを踏みにじったのなら、どう償えばよいのか。
答えはどこにもなかった。
「……調べさせた方がいいか?」
自分の手が震えているのを、直子は知らなかった。
もしかしたら、御所を出た後、彼女はとても幸せに暮らしているのかもしれない。
その可能性に、ほんの少しだけ救われる気がした。
「御所の者は出た後、どうやって生計を立てるのだ?」
素直な疑問が口をついた。
「正直なところ、私のような者は老後のために財産を買います。」
高橋さんの言葉は、どこか遠い響きだった。
直子は藤井春乃にはそれがないと知っていた。
事実を突きつけられ、胸が痛んだ。
「もしなければ?」
声が少しだけ震えた。
「それは大変です。立派な乳母が外で人の洗濯や炊事をし、時には殴られたり罵られたりするのを見たこともあります。」
遠い記憶の中に、そうした光景が蘇った。
……殴られたり罵られたり。
直子の心はざわついた。
胸の奥に、鈍い痛みが生まれた。
ちょうどその時、美咲皇后の遣いの女中が、今夜の夕食をどこで取るかと尋ねに来た。
女中は、静かに頭を下げて廊下に控えていた。
「食事はいらぬ。蒼月御殿へ行く。」
直子の声は静かだったが、どこか遠くを見つめていた。
蒼月御殿はほとんど冷遇されたままだった。
長い廊下には人影もなく、庭の松に雪が積もり始めていた。
先代陛下の存命中からすでに寂れており、奥方たちは皆不吉だと住みたがらなかった。
障子の桟に残る傷跡や、色あせた掛け軸が時の流れを物語っていた。
直子が即位してからは、誰にも手を触れさせなかった。
思い出の場所を、そっと守り続けていた。
正殿の裏には、下働き用の小部屋があった。お姉ちゃんはしばらくそこに住んでいた。
その部屋は、静寂に包まれていた。
部屋には翼の折れた紙凧が掛かっていた。明らかに御所の品ではなく、粗末な作りだった。
白い和紙の表面に、直子が幼い手で描いた絵が残っていた。
直子は思い出した。兄たちの凧を羨ましがる自分のために、お姉ちゃんがわざわざ外から買ってきてくれたものだった。
あの日の嬉しさが、胸の奥でそっと蘇った。
だが安物で、しかも幼い自分が木に引っかけて壊してしまった。
無邪気な自分の過ちを、今になって悔やんでも遅かった。
お姉ちゃんは「また明日行こう」と慰めてくれた。
その声が、どれほど心強かったか。
それはただの慰めで、お姉ちゃんにはお金もなく、洗濯の仕事ばかりで、時間もなかった。
現実は厳しかった。けれど、その優しさが、今も温かく残っている。
あの提灯も、お姉ちゃんが雨の夜に持って走り、泣いている直子を探しに行った時のものだ。
あの夜の冷たさと、灯りの温もりを思い出した。
母を恋しがって泣いていた。
幼い直子の涙が、闇の中で静かに流れていた。
だがお姉ちゃんが急いで足を痛め、跛行になったことには気づかなかった。
今になって、その事実が胸を締め付けた。
戻った時、お姉ちゃんの裾は破れ、膝からは血が滲んでいた。
痛みに顔をしかめながらも、優しく微笑んでくれた姿を、直子は忘れられなかった。
お姉ちゃんの足は元々悪かったが、その後の怪我で寒い日は特に痛み、歩くのも辛そうだった。
冬の寒さが厳しくなるたび、その苦しみを思い出した。
直子はしばらく床に座り、枕元に置かれた小さな帳面を見つけた。
埃を払うと、ぼろぼろの表紙の下から家計簿が現れた。
お姉ちゃんの家計簿だった。
表紙の隅には、小さな文字で「春乃」と書かれていた。
下働きの帳面で、紙も墨も粗悪だった。
にじんだ墨が、時の流れを感じさせた。
長年の湿気で文字はほとんど読めなくなっていた。
指先でなぞってみても、ほとんど判読できなかった。
収入、褒美、支出の項目がかすかに見えた。
項目の間に、小さな印や覚書が残されていた。
お金の出入りは、すべて「直」と「病」の二文字の下で消えていった。
「直子」「病気」と、細い字で繰り返し記されていた。お姉ちゃんの心づかいが、そこに残っていた。
直子は長い間、黙っていた。
部屋の静けさが、胸の内のざわめきを映していた。
二十年前、母君の病床を見守った日のことを思い出した。
あの頃の自分は、ただ祈ることしかできなかった。
母君は重い病で、心が死んでしまい、生きる気力もなかった。
医師の処方も、誰の励ましも届かなかった。
どんなに枕元で泣きすがっても、薬を吐き出してしまった。
どんな言葉も、母君の耳には届かなかった。
ずっと、誰かが自分のそばから去ってしまうのが怖かった。
幼い自分の手は、小さく震えていた。
どんなに引き止めても、母君は去ってしまった。
涙を拭うこともできず、ただ時の流れに身を任せるしかなかった。
誰も、自分のそばに留めておくことはできないのだ。
その現実が、胸に深く突き刺さった。
二十年寄り添ってくれたお姉ちゃんでさえも。
時の流れは、誰にも止められない。
人の心は、二十年もの風雪に耐えられるほど強くても――
その強さも、時には脆さの裏返しだった。
一度の疑念で簡単に壊れてしまうほど脆いものなのだ。
それに気づいたとき、直子は自分の愚かさに気づいた。
直子が沈黙しているのを見て、
高橋さんは主の心の揺らぎを察知した。
気の利く高橋さんが、はっとして急いで跪いた。
「……あっ、調べに行かねばなりません。乳母様に傘を貸したままで、まだ返ってきていません。
あれは熊本の名産で、南九州産の竹で作られた逸品。御所にも十本とない名品ですから、失くしては困ります。」
思い出の品を理由に、主の心の重しを和らげようとしたのだった。
蒼月御殿で紙凧や提灯を見つめる直子は、幼いころの未熟さや春乃への感謝と後悔が胸にない交ぜになり、呼吸が浅くなる。自分の愚かさを噛み締め、胸の奥で涙がこぼれそうになるのを必死でこらえていた。
続きはモバイルアプリでお読みください。
進捗は自動同期 · 無料で読書 · オフライン対応