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裏切りの乳母と禁断の御所 / 第3話:おでん屋台の涙
裏切りの乳母と禁断の御所

裏切りの乳母と禁断の御所

著者: 伊藤 さくら


第3話:おでん屋台の涙

雪はさらに激しくなった。

町の通りは、うっすらと雪化粧をまとい始めていた。屋根から落ちる雪の音に、遠い鐘の響きが混じった。

御所の外では、家族と再会して抱き合い涙する者もいれば、早々にタクシーや電車を探して故郷へ急ぐ者もいた。

それぞれの人生が、御所の門の外で新しく動き出していた。声を上げて泣き崩れる女中もいれば、黙って立ち去る男もいた。

ただ一人、私は商店街の軒下で雪宿りをし、行くあてもなく立ち尽くしていた。

駅へ向かう道すがら、足は止まり、しばし商店街の灯りを眺めていた。ガラス越しに見える明るい光が、どこか温かかった。

おでんの香りが漂い、ふと空腹を覚えた。

だしの匂いが鼻をくすぐり、胃の腑が静かに鳴った。外の冷気が、余計に腹の虫を騒がせた。

赤ちょうちんが柔らかく灯る屋台の前に立つと、湯気が立ち上り、屋台の木のベンチは冬の冷たさがじんと伝わった。遠くからは自転車のベルが響き、昭和レトロな下町情緒が漂う。

百円でおでんを一杯買う。客は他にいなかったので、屋台の老婦人がにこやかに話しかけてきた。

「あらまあ、御所からお出になったんでしょう?」

老婦人は手ぬぐいで手を拭きながら、私の顔をのぞき込んだ。声には、どこか懐かしさが滲んでいた。

「はい。」

箸を動かしながら、小さく頷いた。

「それなら、陛下を見たことがあるんだろう?」

彼女は興味津々に身を乗り出した。周囲のざわめきも遠のき、屋台の下だけ時間がゆっくり流れる気がした。

私は少し考えた。もし直子のことなら、二十年間蒼月御殿で共に過ごし、彼女自身よりも彼女の好みを知っていた。

直子が好きだった食べ物、得意な遊び、朝の癖、夜の独り言——その全てが私の記憶の中にあった。

だが、天皇となった後の直子については、何も言うことがなかった。

即位ののち、直子と私はまるで別々の世界に住む者となった。距離が遠くなるとはこういうことなのだと、改めて知った。

老婦人は私の沈黙を見て、寵愛されなかったのだろうと察し、話題を変えた。

「皇后様が優しい方で、陛下に頼んで女中たちを出して嫁がせてくださったって聞いたよ。」

老婦人の語り口はどこか誇らしげだった。町でも御所の噂話は絶えないらしい。

私は美咲皇后の顔を思い出した。名家の生まれで温和で落ち着いた人だった。

気品とやさしさが同居するその人柄は、皆の尊敬を集めていた。

どんなに厳しい言葉を口にしても、表情はいつも柔らかく穏やかだった。

美咲皇后は、静かな微笑みを絶やさず、時折小首を傾げて人の話を聞いていた。

彼女は直子に言った。「藤井春乃は忠実な下働きで、二十年もの間陛下に仕えてきました。今こそ陛下からご褒美を。」

その言葉には、きっと深い思慮と温情が込められていた。

それでも足りなければ、春乃に縁談を――守衛でも侍医でも構わない、体面を保てるようにと。

私の行く末を案じてくれたのだろう。皇后の気遣いは、どこまでも行き届いていた。

直子は何も言わず、ただ私の跪く背中を見つめていた。

その沈黙は長く、張り詰めた空気の中で時が止まったようだった。

私は嫌で、頭を下げ、嘘をついた。

「この下働きの家は金沢にございます。幼い頃からの許嫁がおります。」

自分でも驚くほど、言葉は静かだった。過去に口にした幾つもの嘘が、今また自分を守ってくれる気がした。

鳳凰の椅子に座る美咲皇后は喜び、褒めてうなずいた。

「なんて仲睦まじい夫婦――危うく幸せを逃すところだったわね。」

皇后の表情に、安堵の色が広がった。心から私の未来を祝ってくれたのだろう。

直子の表情が変わり、私の首筋を見る目がさらに深くなった。

そのまなざしには、昔の面影はもうなかった。

彼女はもう九歳の直子ではない。穴に手を突っ込んで食べ物を探し、泣きながら私の袖にしがみついていたあの少女ではない。

遠い昔のことが、まるで他人事のように思われた。

足を怪我した者は、治ればまず杖を捨てるものだ。

人は、過去を乗り越えて歩み出すしかない。

今目の前にいる直子の瞳は深い水のようで、喜怒の色は見えなかった。長い沈黙の末、かすれ声で言った。

「……そうか。」

静かな声が、雪の中に消えていった。

私は頭を下げ、恩寵に感謝した。

胸の奥に小さな棘が刺さったような気がしたが、それでも礼を尽くした。

ぼんやりしておでんで舌を火傷しながら、うなずいて答えた。

おでんの熱さが舌に残り、思わず顔をしかめた。だがその痛みが、現実へ引き戻してくれた。

「はい、皇后様は優しくて本当に良い方です。」

その言葉に、少しだけ自分を慰める気持ちが込められていた。

「それはよかった。長い争いの末、ようやく世の中も落ち着いたのね。」

屋台の明かりがゆらりと揺れ、老婦人は安心したようにうなずいた。

雪も小降りになり、私は傘を持って立ち去った。

遠ざかる屋台を振り返り、静かに頭を下げた。

おでんを食べながら、春乃はふと手を止めた。唇を噛み、熱いだしが喉を通るたび、胸の奥から涙が滲みそうになる。直子と心が離れてしまった喪失感と孤独が、じんわりと胸に広がり、春乃は涙をこらえながらそっと目を伏せた。

あの頃、両親は私を売った金で弟を連れて飢饉から逃げた。

その記憶は、冬の夜の冷たさとともに心に残っている。

私は人買いに連れられ、船は金沢を通った。

川面を滑る船の上で、知らぬ町並みと霧雨を眺めていた。金沢の街は遠く、どこか他人のもののように感じた。

霧雨に煙る故郷が目の前にあった。生計を立てるために苦労する金沢の行商人たちが、民謡を歌っていた。

船着き場には、疲れ切った顔の商人たちが肩を寄せ合っていた。誰もが、懐かしい歌で心を慰めていた。

「前世で徳を積まなかったから、金沢に生まれ、十三四で家を追われる。」

それは、母がよく口にしていた言葉だった。運命を受け入れるしかないと、幼い私は思い知らされた。

あの年、私は十三歳で、やはり家を追われた。

小さな風呂敷包みだけを抱え、見知らぬ町に降り立った日のことは、忘れられない。

だから御所に入ったばかりの頃、後ろ盾もなくいじめられるのが怖くて、嘘をついた。「家は金沢で、両親が私の帰りを待っている。私は一生御所にいるつもりはない」と。

あのときの自分は、必死で自分を守ろうとしていた。

今、行くあてもなく、逆に金沢行きの新幹線の切符を買うべきか迷っていた。

駅の電光掲示板が、行き先を静かに示していた。切符売り場の列を眺めながら、私は足を止めた。

考え込んでいると、背後の古道具屋から値切りの声が聞こえてきた。

商店街の一角で、昔ながらの骨董屋が軒を連ねていた。古いラジオからは昭和歌謡が流れていた。

「これは御所の品だ!伯母が御所を出なければ手に入らなかったはずだ。百万円なんて安いもんだ!」唇に黒いほくろのある男が叫んだ。「若いの、お前には良さが分からん!」

声が商店街に響き渡り、周囲の通行人がちらりと振り返る。威圧的な態度が、店内の空気を重くしていた。

「確かに本物ですが、主人が詳しく見ないと……」店員は汗を拭いながら苦しそうに謝った。

若い店員は困り顔で、声も小さくなっていった。

黒ほくろの男は帰るふりをし、店員は泣きそうになりながら「生活が苦しいので大きな判断はできない。間違えたら自腹だ」と訴えた。

店内の緊張が高まり、空気が張り詰めていく。

どの伯母さんが、あの倹約家の高橋さんの目を盗んでこんな大きな花瓶を持ち出せたのかと、私は可笑しくなった。

思わず口元がほころんだ。高橋さんの几帳面さを思い出せば、とてもそんな芸当ができるとは思えなかった。

私は花瓶をちらりと見た。

堂々たる大きさと派手な絵付け。だがどこか御所の品とは違う、微妙な違和感を感じた。

「これは御所の品じゃありませんよ。」

私は静かに、だがはっきりとそう告げた。

黒ほくろの男は私をにらんだ。

視線には苛立ちと警戒が混ざっていた。だが、気圧されることはなかった。

「この釉薬を見ろ――そんなこと言って叩かれたいのか、お嬢さん?」

言葉の端々に、威圧と不安が混じっていた。

私は唇を引き結び、首を振った。

表情を崩さず、相手の言葉を静かに受け流した。

「釉薬のことは詳しくありません。ただ、今まで見たものとは違う気がします。」

正直な気持ちを、淡々と伝えた。御所で見た本物の重みは、口先だけでは表現できないものだった。

私はかつて直子の母君に仕えていた。彼女が自害する前は寵愛を受けていた。

思い出は、胸の奥に秘めていた。あの頃の華やかな日々も、今では遠い過去だ。

あの頃、蒼月御殿はまだ冷遇されておらず、世界中の宝物が潮のように流れ込んできた。

品物の良し悪しを見分ける力は、自然と身についた。

他人が一生見られないような品を、蒼月御殿の女官たちは日常的に扱い、飽きるほどだった。

絢爛な品々が日常の中にあった。その贅沢さが、時に心を虚しくさせることもあった。

黒ほくろの男は私を威嚇しようと袖をまくったが、私の持つ油紙傘に刻まれた小さな印を見て、賢明にも黙り込んだ。

傘の柄に刻まれた家紋は、御所ゆかりの品と知る者には一目で分かるものだった。

「お前には分からん。売らん!」

男は怒って立ち去った。

靴音が雪に消え、彼の背中は早足で去っていった。

店員がお礼を言う間もなく、背後から感心した声がした。

「さすがに江が見込んだだけのことはある。お嬢さんの立ち居振る舞いと言葉遣い、やはり御所の方でしたか。」

ふくよかな中年の店主が現れ、私は軽く頭を下げた。

店主の声は温かく、どこかほっとする響きだった。

商人の目は鋭い。彼は私の結い上げていない髪、腕の包み、傘を見て、事情の大半を察した。

商いの世界に生きる者の勘は鋭いものだ、と改めて感じた。

挨拶もそこそこに、店員がお茶を出した。

湯呑みから立ちのぼる湯気に、冷え切った手がじんわり温まった。

お茶は玉露だった。二杯飲んだ後、店主の江は朗らかに笑った。

「先ほどの正義感あるお言葉、江にはよく伝わりました。包み隠さず申し上げます。

来年、御所で新しい少女たちの選抜があります。江のご贔屓筋が、元御所乳母を家庭教師として雇いたいと考えています。

色々と探しましたが、臆病だったり、ずる賢かったり、世間を知らない者ばかり。

江が保証します、ご贔屓筋は決してご無体はしません。いかがでしょう?」

江の口ぶりは誠実で、信頼できる人柄が伝わってきた。

行くあてもない私はうなずいた。

「ただし、一つ条件があります。」

まっすぐに目を見つめ、静かな決意を込めてそう告げた。

春乃が新しい屋敷の門をくぐる瞬間、背後で誰かの足音が雪を踏みしめる音がした――。

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