第2話:別離と再出発の灯
私は十三で御所に入り、髪にはただの銀のかんざし一本だけだった。
着慣れない紺色の着物の裾を引きずり、震える背筋を伸ばして初めて御所の門をくぐったあの日。母の形見の銀のかんざしを、髪に差していたのを思い出す。
お茶汲みの小間使いから管理役の乳母へ、朱塗りの壁の中で二十年を耐え抜いた。
幾度も春を越え、庭の桜の花が散るのを見た。朱塗りの壁に囲まれた静謐な空間は、時に安らぎであり、時に牢のようでもあった。
かつて奥様から真珠を贈られ、皇后からは金の小物入れを賜った。栄華の絶頂には、先代陛下から数珠を下賜されたこともあった。
一つ一つの贈り物は、感謝と信頼のしるしとして、慎ましく大切に保管していた。その重みは、誇りとともに心に刻まれていた。
だが二十年が経ち、御所を去る今日も、髪にはやはり銀のかんざし一本だけ。
晴れの日も雨の日も、私はずっと同じ銀のかんざしを身につけていた。その素朴な輝きが、私の拠り所だった。
そして、三十万円――それが退職金だった。
薄い封筒に入った三十万円。重さは驚くほど軽いのに、私にとっては二十年分の証だった。感謝の意とともに受け取り、そっと懐にしまい込む。
高橋という姓の用人は、誰かが御所の品を持ち出さないかと警戒して見張っていた。
慌ただしい空気のなかでも、高橋さんは目を光らせていた。几帳面な人柄は、御所勤めにふさわしかった。
しかし私を見ると、頬をくしゃくしゃにして微笑み、丁寧に言った。
「藤井乳母、もう一度お部屋をご確認ください。大事なものを置き忘れないように。」
高橋さんはいつもの柔和な笑顔に戻り、深々と頭を下げてくれた。まるで長年の労をねぎらうように。
私は部屋を振り返った。
障子越しに入る淡い光の中、懐かしい部屋の佇まいが目に焼き付いた。
壁には翼の折れた紙凧が掛かっていた――九歳の直子が転んだ時に壊れたもので、直してまた一緒に飛ばそうと約束していた。
あの頃の直子は、外で遊ぶことも少なく、紙凧一つにささやかな幸せを見出していた。壊れた翼は、幼い日の不器用さの象徴でもあった。
机のそばには、古びた提灯が立っていた。かつて夜の雨の中、それを手に直子を探し回ったことがある。
灯りの弱い提灯を頼りに、御所の庭を走り回った。雨のしずくが袖に染み、呼びかける声が夜気に消えていったのを覚えている。
けれど、その後も春はいつも雨だった。「明日こそ」と言い続けて、結局もう一度行くことはなかった。
春の長雨が続くたび、「明日こそは」と心で誓った。けれど時間は過ぎ、約束は果たされないまま残った。
その提灯には穴が空いていて、不注意に持つと風で火が消え、暗闇でつまずきやすかった。
紙の裂け目から風が忍び込み、蝋燭の火は揺れた。不安定な灯りに、かつての心細さが蘇る。
だが、もう直子には必要ない。
彼女はもう大人になった。私の助けなどいらない場所に立っている。
陛下の寝殿は、真夜中でも昼のように明るいのだから。
あの寝殿の障子から漏れる灯りは、まるで昼のようだった。直子が寂しさを感じることは、もうないだろう。
私は部屋を一度見渡し、心の中で「これで本当に終わり」と呟いた。胸の奥に余韻を残しながら、微笑み、彼の手を煩わせまいと答えた。
「ご心配なく、高橋さん。置き忘れたものはありません。」
小さく一礼し、感謝の気持ちを込めて言葉を添えた。高橋さんもまた、胸の奥で安堵したようだった。
蒼月御殿を出ると、ふいに雪が降り始めた。桜の花びらのように細やかな雪だった。
冬の初雪は静かに舞い、庭の松の枝に積もっていく。雪を踏みしめる音が、かすかに響いた。
「乳母様は金沢ご出身と、以前から伺っております。御所を出られた後は、お帰りになるのですか?」
金沢、と口にしたとき、幼い日の風景が脳裏に浮かんだ。湿った空気、霞む山々、遠い記憶の町並み。
私は立ち止まり、うなずいた。
着物の襟元を正し、ほんの少し背筋を伸ばして答えた。
それは本当ではなかったが、今となっては小さな嘘などどうでもよかった。
過去の偽りも、今では誰にも傷を与えない。自分のためだけの優しい嘘だった。
「ええ、金沢に帰ります。」
雪の向こうに、帰るべき場所があるような気がした。
「実は、乳母様が少しでも頭を下げれば、陛下もきっと……」
高橋さんの言葉は、心遣いから出たものだった。けれど私は、その先を聞く気にはなれなかった。
「高橋さん、どうぞご自愛ください。」
言葉を遮り、丁寧にお辞儀をした。これ以上の情けは、私には重すぎた。
高橋さんは機転が利き、それ以上は何も言わず、笑顔で頭を下げた。
互いに礼を交わし、言葉の代わりに静かな時間が流れた。
「乳母様も、どうぞお元気で。」
その声に、名残惜しさがにじんでいた。冬の空気に溶けていく別れの挨拶だった。
油紙の傘を手渡され、高橋さんが厳かに一礼した。
「この傘は、乳母様への感謝の気持ちを込めてお持ちください。」
南九州産の竹を使った油紙の傘。指先で傘の骨を確かめると、どこか温もりを感じた。
私は傘を開き、ふと遠くの軒下に黒い衣の影を見つけた。
傘の下で、細雪がしんしんと降り続いていた。軒下の影は動かず、静寂の中でじっとしている。
細雪が額に降り、冷たさが沁みた。
その冷気が肌を刺し、思わず身震いする。誰もが寒さに肩をすぼめている冬の日だった。
よく見ると、それは人ではなく、雪を避けるカラスだった。
大きな羽根を膨らませたカラスが、軒先でしきりに身繕いをしていた。人影のように見えたのは、雪に覆われた羽根のせいだった。