第4話:崩壊の告白と金の現実
そして、さらに気まずい瞬間が訪れた。
手に汗がにじむ。心臓の鼓動が、耳の奥でやかましく響いていた。
男は彼女の鎖骨にキスしながら、突然歌い出した。「私を愛してくれる人は後悔なく尽くしてくれる、でも私は愛する人のために泣いて狂う……」
昭和の歌謡曲のような節回しで、車内に不釣り合いなメロディーが流れる。どこかで聴いたことのあるフレーズだった。
彼女はくすくす笑いながら彼のキスに応え「そうよ、ベイビー、あなたの歌の通り」と言った。
二人だけの世界に、私はもう完全に存在していなかった。彼女の艶やかな声が、トランクの奥まで突き刺さる。
私は理解できなかった。こんな時に歌うなんて、どういう神経なんだろう?
頭の中が真っ白になる。「この状況で歌うか…?」と、現実感が遠のいていくのを感じた。
彼らなりの変なユーモアなのか、それともレクサスに乗る男には女を笑わせる何かがあるのかもしれない。
都会の人間は、こんなにも図太く生きているのかと、妙な感心すら覚えた。
だが、私にとっては地獄だった。しかも、これがすべてライブ配信されているのだから。
背中が冷たくなり、心の底から叫びたい衝動を必死で抑え込む。LINEライブのコメント欄が、静かな恐怖を煽っていた。
私は何かしなければと思った。
「このままじゃダメだ」と、頭の中で何度も繰り返す。しかし、どう動けばいいのかわからなかった。
これは私のアカウントだ。このまま配信が続き、本当に不適切な映像が流れれば、最悪逮捕されかねない。
日本の法律だと、不本意なライブ配信でも責任を問われかねない。恐怖と焦りが入り混じる。
思わず咳払いをした。
乾いた咳がトランクの狭い空間に響いた。自分の存在を、ついに明かしてしまった。
その瞬間、後部座席のふたりは飛び上がった。
シートがバタバタと動き、男が「誰だ!?」と叫ぶ。彼女の悲鳴混じりの声も聞こえた。
彼女は私を見て、顔色が真っ青になり、「あなた、仕事中じゃなかったの?」と叫んだ。
彼女の目が、明らかに恐怖と驚きで見開かれていた。彼女の普段の冷静さは、どこかに消えていた。
私は「今日は君の誕生日だから、サプライズで休みを取ったんだ」と答えた。
声が震えていた。言葉の裏に、どうしようもない悲しみがにじんでいた。
情けない話だ。半休を取ってまで準備したのに、こんな結果になるとは。
あれだけ会社の上司に頭を下げて取った休みが、人生最悪の出来事に変わってしまった。自嘲しか浮かばなかった。
驚いたことに、私はまったく怒りを感じなかった。怒りの感情すら湧かなかった。
心が空っぽで、ただ冷静だった。感情が麻痺して、涙も出なかった。
なぜなら、私はこう考えている。「結婚するまでは、みんな他人の未来の妻と寝ているに過ぎない」と。
子どもの頃、祖父に「結婚するまでは縁もゆかりもないもんだ」と言われたことを思い出した。
これでプロポーズは絶対に無理だ。
指輪の箱を、そっとポケットに戻す。もう必要のないものになってしまった。
私の目には、彼女はもう他人の妻だった。
「他人の奥さん」。その言葉が、やけに現実味を帯びて心に沈んでいく。
そして、ライブ配信を見ると、すでに視聴者は千人を超えていた……。
パスワード制のはずなのに、なぜここまで拡散されたのか。脇汗が流れ落ちて、スマホが手から滑り落ちそうだった。
親戚や友人限定、パスワード付きの部屋なのに、この人数?
「こんなのあり得ない…」と、唇を噛みしめた。自分のプライベートが、どこまでも暴かれていく。
つまり、同級生や会社の同僚、両家の親戚たち――誰かが知り合い全員に招待を送ったのだ。
「見て見て」と無責任にシェアされたURL。日本のネット社会の怖さを、身をもって思い知らされた。
家族から職場、学校まで、完全に拡散されていた。
LINEの通知音が「ポン」「ピロン」と鳴り止まない。スマホのバイブが手にじわじわ伝わり、現実感が遠ざかる。友人や親族、会社のグループチャットも、きっと今ごろ大騒ぎになっている。
案の定、その時、彼女の会社の駐車場でエレベーターから大勢の人が降りてきた。
夏の昼下がり、スーツ姿の男女が、ざわざわと集まってくる。社内の噂話の目が、一斉にこちらを向いていた。
彼らは車を探している様子ではなく、スマホを持ってこちらを見ていた。
全員がスマホ片手に、画面越しに現場確認。「やっぱり生中継だ」と言わんばかりの顔つきだった。
明らかに、現場を直接見に来たのだ。
冷や汗が背中を伝う。「まさか、こんな公然の場で…」と、呆然とするしかなかった。
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