第5話:終わらない夜の覚悟
彼女はパニックになり、外の集団を見て私に「今は騒がないで、同僚が外にいるの。私を恥ずかしい目に合わせないで」と懇願した。声が震え、視線は泳ぎ、手の中のハンカチをぎゅっと握りしめていた。普段の彼女からは想像できないほど切羽詰まった様子だった。
私は彼女を見つめて「まだ体裁を気にするのか?」と問いかけた。
「この期に及んで…」と、呆れにも似た感情が込み上げた。
彼女は「もうバレた以上、取り繕う意味もない。別れましょう。私にはもっとふさわしい人がいるはず」と言い放った。
潔いようで、どこか投げやりな口調だった。未練も情も、そこにはなかった。
私は「俺が何をしたっていうんだ?」と尋ねた。
問いかけながらも、答えなど期待していなかった。虚しさだけが残った。
彼女は慌ててカーディガンを拾い、髪をかき上げて、ミラーで顔色を確認しながら服を着直し、運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
カチャリ、とシートベルトを締める音。冷たい視線だけが残った。
運転しながら冷たく言った。「あなたはいい人だとは思う。でも、私はもっとふさわしい人がいると思うの。レクサスに乗ったら、もう普通の車には戻れないの。」
その言葉は、トランクの壁よりも冷たかった。私が積み重ねてきたものが、全て否定された気がした。
男も気まずそうに服を着直していた。その時、私は大事なことに気付いた。
ちらりと男の左手が見えた。そこには、光る指輪があった。
男の左手薬指には結婚指輪がはめられていた。その瞬間、私は息を呑み、心臓が跳ねるような衝撃が走った。
「ああ、そういうことか」と心の中で呟いた。誰もが秘密を抱えて生きている。
私は彼の手を指差して「これが“もっとふさわしい”ってこと?」と聞いた。
声に出してしまった自分に驚いた。怒りでも、嫉妬でもない、ただの疑問だった。
彼女は冷たく言い返した。「彼が毎月20万円くれるって知ってても、同じこと言う?」
お金。それが現実の重さだった。彼女の本音が、あまりにもストレートで、逆に笑いそうになった。
私は息を呑んだ。
呼吸が止まり、全身の血が逆流するような感覚。今までの苦労が、全て無意味に思えた。
ネット上では月20万円なんて大したことないように見えるかもしれないが、現実では私たちにとっては大金だ。私の月給は20万円ちょっとしかない。
手取り18万円、家賃と光熱費、奨学金の返済。20万円は、人生を左右する金額だった。
車も300万円ちょっとで、ローンで買ったものだ。
ローン返済表や家計簿の数字が、頭の中にフラッシュバックする。毎月の明細メールや家計簿アプリのグラフが、目の前にちらつき、金銭的現実の重みがずっしりと圧し掛かった。
男は着替え終わると、私を一瞥し「兄弟、こういうのはよくあることだ。金額を言ってくれ、ふたりが静かに別れてくれるなら支払うよ。騒ぎを大きくしないでくれ」と言った。
「世の中金だよ」と、まるでサラリーマン金太郎の世界のような現実を突きつけられた。
私は彼を見つめ「口止め料か?」と尋ねた。
唇が渇く。言葉にするのも馬鹿馬鹿しいと思った。
彼は「口止めじゃない。ただ静かにしてもらいたいだけだ」と返した。
ビジネスマンらしい口ぶり。感情を一切交えない、ドライな言い方だった。
彼女は会社のビルの前で車を止めた。そこには「社内専用駐車場・無断駐車禁止」と書かれたスペースにレクサスが停まっていた。
銀色のレクサスが、威圧的に鎮座していた。都心のオフィス街特有の冷たい風が吹き抜けていく。人混みのざわめきや蝉の声、遠くの信号の電子音が重なり、日本の夏の都会らしい雑踏が広がっていた。
間違いなく、彼の車だ。
ナンバープレートの番号も、どこかで見覚えがあった。
彼女は私に向き直り「復讐とか考えないで。彼は本社から来た副社長よ。あなたには太刀打ちできない」と警告した。
「立場が違うのよ」と、突き放すような声だった。まるで私が子供扱いされているような感覚だった。
私は呆然とした。
全てが遠く、現実味がなかった。何も考えられなかった。
副社長のコネが怖いわけではなかったが、彼女の同僚たちもライブ配信を見ていた。
LINEグループで「見てる?」とやりとりする同僚たちの姿が、目に浮かぶ。会社の噂好きな女子たちが、ネタにしているのだろう。グループトークのスタンプや「既読」表示がどんどん増えていき、SNSの現実味が否応なく押し寄せてくる。
同僚たちがこっそり降りてきていたことや、視聴者数の異常さから考えて、支社も本社もこの配信を見ていた可能性が高い。
社内チャットやメールで一気に広まる。日本企業特有の「噂の伝播力」を、今さらながら痛感した。
この男の副社長の座も、もう長くはないだろう。
「ザマーミロ」とさえ思えなかった。どこか無関心な自分がいた。
私が黙っていても、いずれ彼の妻の耳に入る。もしかしたら、彼女自身がライブ配信を見ていたかもしれない。
副社長の奥さんだ。会社の社員がこれだけいれば、連絡先を知らないはずがない。
妻はたぶん、もうすべてを知っている。女の直感は、男が思うより鋭いものだ。
案の定、その時、男のスマホが鳴り始めた。
着信音は、ビジネス用のシンプルなメロディだった。
画面を見ると、発信者は「妻」と表示されていた。
「やっぱり…」と呟きそうになった。
彼はすぐに着信を拒否し、「今忙しい、後で連絡する」とLINEでメッセージを送った。
指が震えていた。冷静なふりをしても、内心は動揺しているのが見て取れた。
だが、すぐに別の着信が来た。今度は「会長」だった。
会社の上層部からの電話。緊張が一気に高まった。
彼はさすがに会長からの電話は無視できず、ためらっていた。
額に脂汗が浮かぶ。「ヤバい」と思っているのが、表情でわかった。
彼女は不安げに「会長よ。大事な用事かもしれないから出た方がいい」と促した。
彼女の声にも、これまでにない動揺が混じっていた。
彼は私をにらみつけ、歯ぎしりしながら「もういい、危ないから出ない。何を言われるかわからない」と言った。
短い沈黙の後、彼は決断したようだった。プライドが、理性に勝った瞬間だった。
彼は会長からの電話も拒否し、同じく「今忙しい、後で連絡する」と返信した。
この行動が、彼の人生をどう変えるのか。その場にいた全員が、どこかで予感していた。
間違いなく、妻も会長もライブ配信を見ていたのだろう。
事態は、もう誰にも止められないところまで来ていた。
彼は急いでスマホの電源を切り、「後でかけ直す。バッテリー切れだったって言えばいい」と言った。
小声で呟くその様子が、妙に滑稽だった。
彼女はうなずき「それで大丈夫よ」と返した。
どこか現実離れした安心感が、彼女の顔に浮かんでいた。
私はため息をついた。
大きく息を吐き、頭を抱えた。これが人生の転機なのだと、静かに悟った。
彼はスマホの電源を切るべきじゃなかった。
きっと、この後にも何かが起きる。物語は、まだ終わっていないのだから。
もしそうしなければ、まだ何か……
夜の街の雑踏が、窓の外でうっすらと響いていた。夏の夜風がわずかに車内に流れ込み、遠くのコンビニの明かりや電車の発車メロディが微かに耳に届く。日本の夜の情景が、胸に沁みていく。
私は、閉じたトランクの中で、静かに新しい一歩を踏み出す覚悟を決めた。スマホの画面には、まだ誰かがコメントを打ち込もうとする「…」のマークが点滅していた。物語は、まだ終わっていない。
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