第2話:福岡の夜風と25の声
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彼女のからかうような視線を見て、冗談だとわかってはいたけど、どう返せばいいかわからなかった。ちょうどそのとき、田島さんがまた近づいてきて、タバコと酒の匂いをぷんぷんさせながら言った。「どうだ、うちの大卒に興味あるのか?そんなに盛り上がって。」
田島さんの顔は酔いで赤く、ちょっとした父親みたいに僕を守っているつもりなのかもしれない。
「興味はあったけど、彼は私に興味なさそうだよ。」25はおどけて笑った。
彼女の声は軽やかだったが、どこかに本音が混ざっていた気がした。
「いや、気持ちは時間が経てば出てくるもんだ。大事にしてやってくれよ。うちのは頭がいいからな。」
田島さんは何度も僕の肩を叩き、その大きな手の温もりがやけに残った。
「気持ちってどうやって育つの?今日が初対面だよ。」25はまた枝豆をつまみ始めた。
枝豆のさやを割る音が、なぜか妙に耳に残った。
「何言ってんだよ。初対面で他人、二度目で知り合い。慣れるもんさ…」田島さんはいやらしく笑った。
その笑い声が、カラオケのBGMよりも大きく響いていた。
僕はどうしてもこの雰囲気に耐えられなかった。酔いも回って頭が痛くなり、挨拶して帰ることにした。カラオケを出ると冷たい風が吹いて、やっと正気に戻った気がした。
福岡の夜風は、少し湿っていて、酔いを冷ますにはちょうどよかった。コンビニの灯りが白く街を照らし、中洲の屋台からラーメンの匂いと湯気が流れてきた。街路樹の葉がカサカサと揺れていた。
会社の社員寮に戻って、布団を整えようとしたとき、突然寮の電話が鳴った。こんな夜中に誰だろうと思いながら受話器を取った。
社員寮の薄暗い廊下に、電話の呼び出し音がやけに大きく響いた。黒電話の受話器が手に重く感じた。隣の部屋の同僚が壁越しに小さく咳払いをした。
「帰った?」女性の声だった。
その声に、僕は一瞬息を呑んだ。
「どちら様ですか?」
声が少し震えていた。
「あなたよ。声でわからない?」相手は笑った。
電話の向こうの笑い声は、昼間よりもずっと近くに感じた。
「本当にわからないです。えっと…」
会話の間に、どこか懐かしいような気配を感じていた。
「もう、忘れっぽいんだから。さっきまで一緒に飲んでたじゃない。」それとなくヒントを出してくる。
彼女の声が少し甘くなった気がした。
少し考えて、「25?」と思わず口にした。
自分で言った名前が、妙に生々しく感じられた。
「ふふ…やっと当てたね。」
電話の向こうの彼女が、得意げに微笑んでいるのがわかった。
「どうやって寮の電話番号を知ったの?」と僕は尋ねた。
「あなたの同僚、田島さんが教えてくれたのよ。ちゃんと寮に帰ったか確認しろって。今日結構飲んでたから心配してたよ。」
田島さんの気遣いが、意外と細やかだったことに少し驚いた。
「うん…ありがとう。」誰に感謝すべきか迷った。
感謝の言葉が、電話線の向こうでふわりと消えていった。
「別にいいよ。じゃあ、休んでね。」25は少し間を置いて、「ねぇ、本当にまだ童貞?」と聞いてきた。
彼女の問いかけが、夜の静けさに溶けていくようだった。
「え…」僕は口ごもり、すぐに話題を変えた。「そういえば、今日の仕事はどうだった?何人お客さん取った?」
自分の情けなさを隠すように、僕は慌てて話題を逸らした。からかわれてばかりだ、と苦笑いした。
「聞かないでよ。今日は全然ダメだった。あなたが最初のお客さんになると思ってたのに。」
電話越しの彼女の声は、少しだけ寂しげだった。
「ごめんね。」
思わず謝ったけれど、本当は謝るべきことかもわからなかった。
「ふふ、いいよ。休んでね。私はまだ夜中まで休めないけど——夜の方が客が多いから。時間があるとき遊びに来てよ。本当に童貞なら、最初はタダ、二回目は半額でいいから。」そう言って甘い声で「バイバイ」と電話を切った。
受話器を置いた後もしばらく耳の奥に、彼女の声が残っていた。福岡の夜の静けさの中で、僕の鼓動だけが妙にうるさく響いた。
布団に入って目を閉じたけど、なかなか寝付けなかった。25のからかう顔が何度も頭に浮かんで、体が熱くなった。
枕元の天井を見上げながら、なぜか心がざわざわと騒いでいた。
数日間、仕事中も上の空だった。田島さんは僕の顔を見てニヤニヤしながら、「おい、恋煩いだな。」
田島さんの声が、昼の社員食堂にも響き渡った。
「やめてくださいよ。みんながみんな、田島さんみたいにいつもムラムラしてるわけじゃないですよ。」
僕は箸をいじりながら、必死で取り繕った。
「言い訳するやつほど怪しいんだ。見ろよ、純情だなあ。大卒ってのは、食欲と性欲は人間の本能だって知らないのか?女に手を出せないなら、飯も食うな。」
田島さんの冗談は、どこか九州男児らしいストレートさがあった。社員食堂のテレビからは野球中継が流れ、味噌汁の湯気が立ち上っていた。
田島さんの言葉が頭に残って、また25の色気が脳裏をよぎった。昼休みに寮が空いているのを見計らって、着信履歴を調べ、思い切って彼女に電話してみた。
電話をかける指が、やけに震えていた。昼下がりの寮の静けさが、余計に緊張を煽った。
プルルル…とコール音。急に後悔しはじめた。
息を詰めて待つ時間が、妙に長く感じられた。
「はい。」切ろうとした瞬間、25が出た。
電話越しの声が、昼の光の中で不思議と柔らかかった。
「俺だけど。」少し間を置いて言った。
「わかってるよ。どうしたの、急に?」彼女は少し疲れた声だった。
彼女の声のトーンに、昨日より少しだけ親密さが混じっていた。
「この前は君からかけてきたから、今日はこっちから。邪魔じゃなかった?」
自分でも、理由にならない理由を口にしていた。
「ううん、今テレビ見てる。」
テレビの音が遠くでざわめいていた。
「昼間に休まないで、夜大丈夫なの?」
彼女の生活リズムを、ふと心配になった。
「昨日はお客取らなかったから。今、女の子の日なの。」
その言い方が妙にリアルで、僕は少し照れた。
「あ、そう…なんか元気ないみたいだけど?」
画面の向こうで、ため息をつくような気配があった。
「もう、最悪。今日友達が帰省するから、昼に博多駅まで見送りに行ったの。帰ってきてポケット見たら財布がなくなっててさ。」
彼女の声には、疲れと苛立ちが混ざっていた。
「どこでなくしたの?探しに戻った?」
僕はつい真剣になって聞いてしまった。
「無理だよ。バスでスられたんだと思う。乗る前にお金出したの覚えてるし、数駅で消えてた。最近のスリは手が早いよ…」
彼女の説明は淡々としていたが、悔しさがにじんでいた。
「たくさん入ってたの?」
心配が言葉ににじんでいた。
「大したことないよ、数万円とキャッシュカードくらい。でも面倒なのは、財布にペンダントが入ってたの。値段は安いけど、母親からもらったものだったんだ。それが一番ショック。」
彼女の声がわずかに震えていた。大切なものを失った悔しさが、電話越しに伝わってきた。
「警察に届けたら?もしかしたら戻るかも。」
僕は少しでも彼女を励ましたかった。
「無理無理。なくなったものはもう戻らないよ。運が悪かっただけ。」
その言葉には、諦めというよりも、日々を生きる彼女なりの現実感がにじんでいた。
電話を切ったあと、なぜか僕の頭にはひとつの考えが浮かんだ。彼女の財布をどうにかして取り戻してあげたい、と。
ふと、彼女のために何かしたいと思った自分に驚いた。