第1話:25という名の女
25は日付じゃない。25は、一人の若い女性の名前だ。なぜ“25”なのか、最初は冗談かと思った。
彼女は、僕の人生で最初の女性だった。
僕は彼女に、あの世界から抜け出すよう説得したことは一度もない。
あの日のことを思い出すたび、胸の奥がざわつく。彼女の名前を呼ぶたび、ふとどこかの路地裏で彼女の笑い声が聞こえてきそうな気がする。
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大学を卒業した年、僕は福岡の物流会社で働いていた。地元出身の田島さんという同僚がいて、よくカラオケに連れて行ってくれた。あるとき、みんなで歌っていると、突然若い女性たちが一列になって部屋に入ってきて、ドアのそばで僕たちに選ばれるのを待っていた。
福岡の夜は湿気が多くて、カラオケボックスの外のネオンがぼんやり窓ガラスに滲んでいた。女の子たちの足元にはハイヒールが並び、どこか場違いな緊張感が漂っていた。遠くで誰かが『ルビーの指環』を歌っていた。
僕は呆然とした。その頃、まだ一度も女性と付き合ったことがなかったのだ。
胸の鼓動が速くなって、手汗が滲んでくる。こういう場所に慣れている田島さんたちの様子を横目で見ながら、僕はただ戸惑っていた。
田島さんが肘で僕をつついたので、僕は適当に指をさした。すると、ひとりの女の子が隣に座ってきた。僕が話さないでいると、彼女はただ黙って枝豆をつまんでいた。
テーブルの上にはたくさんのグラスやつまみが並んでいるのに、彼女が無心で枝豆のさやを指先で割る仕草だけが、やけに静かに見えた。僕はその指の細さをぼんやり見つめていた。部屋には昭和歌謡のBGMが流れ、昭和と平成が交差するような空間だった。
緊張で手のひらに汗がにじむ。田島さんが僕の背中を叩いて、その子に言った。「うちの会社の大卒ばい。よろしく頼むけん。」
田島さんは自慢げに僕を紹介し、場の空気を和ませようと笑っていた。福岡弁のイントネーションが耳に心地よい。
「へぇ、大卒?」彼女は僕を見て微笑んだ。「インテリさんじゃない。」
彼女の目が意外に真剣で、でもどこか冗談めいていて、僕は思わず視線をそらした。
「い、いえ、そんな…」僕はうまく言葉が出なかった。「あの、どうお呼びしたら…?」
僕の言葉に、彼女は吹き出して、体を折って笑った。「何それ、どう呼ぶかって?25って呼べばいいのよ。」
その笑い声が、カラオケのBGMよりも鮮明に耳に残った。25——数字の名前に戸惑いながらも、どこか距離のある響きがした。
彼女にからかわれて、僕はどうしていいかわからなくなった。そのとき田島さんが助け舟を出してきて、『昴』を一緒にデュエットしようと言い出した。こんな場所であんな歌を歌うのは場違いだと思って、ビールを飲みすぎて頭が痛いと断った。
歌本をめくる手も震えていた。みんなが盛り上がる中、僕だけが浮いていた。
「ちょっとだけ遊ばない?」25が突然耳元でささやいた。
彼女の髪からふわりと甘い香りがして、僕の心臓はさらに高鳴った。
「遊ぶって、何を?」
間近で見ると、25のまつげが長くて、口元にかすかにほくろがあった。
25は何か言ったが、個室がうるさすぎてよく聞こえなかった。田島さんは女の子を抱えて絶唱しているし、25は隣の部屋を指さした。僕はやっと意味がわかった。
あの空間特有の熱気と煙草の匂いが混ざって、頭がぼうっとする。僕の視線を追って、25は小さく微笑んだ。
誰かがもう待ちきれず女の子を引っ張って隣の部屋に行っていた。こういう、ステージを飛ばして直接個室に行くやり方を「ちょい遊び」と呼ぶらしい。
福岡の夜の遊び方は、東京とはまた違う、妙な開放感とスピードがある。
25は指を三本立てて僕の前で振った。意味は明白だ——一回三万円。
彼女の指の動きが、妙に現実味を帯びて感じられた。その仕草は慣れているようで、でもどこか寂しさもにじんでいた。
その頃、僕はまだ試用期間中で、月給は十万円ちょっと。三万円も一度に使うのはためらわれた。恥ずかしさを隠すために笑ってごまかした。「今日はやめとくよ、お金持ってきてないし。」
僕の声は少し上ずっていた。自分でも情けなく思いながら、財布に手をやった。
「遊びに来てお金持ってこないなんて。」彼女は呆れたように言った。
その言い方は、どこか姉御肌のような包容力も感じられた。
「本当に持ってないよ。信じないなら見てみて。」僕はズボンのポケットを裏返して、小銭しかないのを見せた。本当は給料をもらったばかりで、札は後ろポケットに入っていた。
その一瞬、彼女は僕の目をじっと見つめていた。嘘を見抜いているのか、ただ興味があるだけなのか。
「本当に持ってないんだ。」彼女は半分冗談めかして言った。「大人の男が現金も持たずに出歩いて大丈夫?何かあったらどうするの?」
彼女は小さく肩をすくめて、どこか楽しそうだった。
「何も起きないよ。日本だし、昼間だし。」
僕は変に理屈っぽく答えてしまった。その瞬間、彼女の頬が少しだけ緩んだ気がした。
「ふふ…やっぱり大卒は口がうまいね。見た感じ、もしかして童貞?」25はいたずらっぽく僕の足の間を軽く叩いた。
彼女の指が一瞬だけ膝に触れた。その温度が不思議と残った。
「そんなわけないよ。もうそういう時代じゃないし。」僕はあわてて足を組み替えた。
僕の声は裏返っていた。顔が熱くなって、耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。視線を泳がせながら、恥ずかしさで体が固まる。
「ごまかさないで。入ってきたときからわかったよ。」25は首をかしげて僕の目を見つめた。「じゃあこうしようか——お姉さんが確かめてあげる。今回はタダでいいよ。」
彼女の声はどこまでも冗談めいていたが、僕は一瞬、本気にしてしまいそうだった。からかわれてばかりだ、と自嘲気味に思う。