第3話:従姉と私、日常に潜む仮面
カチッ。
自宅の書斎で、従姉の松岡瑞希(まつおか みずき)がパソコンで最後の一文を打ち終え、私の方を見上げる。
細い指先でエンターキーを押し、小さく伸びをしながら、淡いパープルのカーディガンの袖を直す。その仕草すら、いつもの瑞希らしい。カップを持ち上げる音が静かに響き、部屋にコーヒーの香りが残る。
「で、結局どうなったの?あの賢い猿人は何を発見したの?」私は好奇心で尋ねた。
机の上には空になったコーヒーカップ、原稿用紙の山。私はその横に座り、足をぶらぶらさせて彼女の顔を覗き込む。
瑞希はノートパソコンを閉じ、カップを手にして一口飲みながらぼそりと呟いた。「ただの創作話よ。秘密はまだ考えてない。」
その言葉に私はがっかり。「えー、ずっと横で見てたのに、いよいよクライマックスってところで、作者自身が分かってないって?」
「肩透かしじゃん…」と、つい膝を抱えて愚痴る。瑞希は少しだけ口の端を上げて、私の反応を楽しんでいる。
瑞希は私を一瞥した。「大和隼人(やまと はやと)、あんたはいつも変なアイデアばかり思いつくじゃない。何か秘密を考えてよ。」
「また無茶振り…」と私は呟きながら、手元のシャープペンを机でトントンと鳴らす。だけど、瑞希の期待の眼差しは真剣そのもの。
私は呆れて言った。「本気?ホラー作家のあなたが私に聞くの?」
「素人の発想が意外と使えるのよ」と、瑞希は肩をすくめて笑う。彼女のこういう開き直り、昔から変わらない。
彼女は私の肩を軽く叩き、気にせず言った。「ブレインストーミングってやつよ!最初は新参者を怪物にしようと思ったけど、それじゃありがちで、サスペンスが足りないの。」
「もし不気味の谷がテーマなら、ただの怪物じゃダメだよ…」
私も腕を組んで真面目に考える。瑞希はすぐに「ありがち」を嫌うから、何か新しい仕掛けを…と頭をひねる。
そう言いながら、私は本棚から一冊の本を取り出した。世界のホラー作家の作品と恐怖理論の分析が載った海外アンソロジーだ。
本の表紙には洋館と歪んだ影。私はパラパラとページをめくり、ふと気になった箇所で手を止める。
私はあるページを開き、瑞希に渡した。再び腰を下ろして言う。「ほら、不気味の谷の最初の理論はロボットや非人間的な物体についてだったんだ。」
「初期の学者は、義手や人形、アンドロイドを例に挙げてたんだよ」と補足する。
瑞希は口を尖らせた。「基本は知ってるわよ。」
それでも彼女は本を素直に見てくれた。
本の活字を追いながら、時折指先でページをなぞる。その仕草が妙に真剣だ。
私は笑った。「あなたの話は猿人から始まるから、ロボットは出せないし、世界観に合わないよね。」
「火の発見から始まる物語に、いきなりロボットはちょっとね」と、瑞希が笑う。
彼女は本から目を離さずに言った。「そう、そのため最初から『人間そっくりだけど致命的な欠陥がある存在』にしたの。人間がそれを見抜いた瞬間、正体が分かるって設定。」
「設定は面白いけど、欠陥って…どんなの?」私は前のめりになって尋ねた。
私は興味津々で聞き返す。「いいね。それで、欠陥って何?」
「だから、まだ考えてないって言ったでしょ。」彼女は苛立ち気味に言った。
「うーん…」と唸りながら、私は自分のスマホで検索しようとする。だが、瑞希はすでにイライラ気味で私を睨んでいる。
彼女が頭を抱えているのを見て、私は脚を組みながらからかった。「火星人?爬虫類人間?モグラ人間?」
「それじゃマンガのネタでしょ」と、瑞希はすぐさまバッサリ。
彼女は手を振って一蹴した。「つまんない。」
「やっぱり…」私は苦笑い。彼女の理想はもっと繊細で、心理的な恐怖なのだ。
しばらくして、彼女はノートパソコンを指差した。「でも、名前だけはもう決めてる。」
「どんな名前?」
「私たちは人間だから、彼らは『類人(るいじん)』って呼ぶの。」
「えぇ…」私はソファに崩れた。「そんなに適当でいいの?読者が『雷人(らいじん)』と聞き間違えたらどうするの?」
「似た音だけど、字が違うから大丈夫」と瑞希。だがその目は、「文句があるなら自分で考えなさい」とでも言いたげだ。
彼女は呆れた目で私を見て、また本に戻った。
私はそっと机に肘をついて、瑞希の横顔をじっと観察する。彼女が考え込む時の癖は、昔から変わらない。
ふと私は思いついた。「そういえば、あの賢い猿人はなぜ最初の一目で類人に違和感を覚えたんだろう?」
彼女はじっと私を見つめ、急に真剣な表情になって奇妙な質問を投げかけた。「隼人、あんた、私の顔を見て怖いと思ったことある?」
「え?」私は戸惑った。「どういう意味?」
「いや、だって、私が本当に瑞希かどうか…」と、彼女はわざとらしく意味深な声で言う。
私の困惑を見て、彼女の張り詰めた表情が急にいたずらっぽい笑顔に変わった。彼女はこう言った。
「類人の特徴の一つは、欠陥が発覚する前でも、ごく一部の人は違和感を覚えて恐怖を感じること。」
「直感ってこと?雰囲気で察するの?」私は首を傾げる。
「でも、原因が分からないのに怖がる理由なんてある?欠陥が見つからなければ、何を怖がるの?」私はますます興味が湧いた。
彼女は本を置き、急に黙り込んで無表情で私をじっと見つめた。
沈黙が部屋に満ちる。時計の針の音だけがカチカチと響く。窓の外でカラスが一声鳴いた。
「姉さん、なんでそんな顔してるの?」
その沈黙が不気味で、私は落ち着かなくなった。
額にうっすら汗がにじむ。部屋の空気が妙に重くなる。
彼女は少し首を傾げ、半分微笑みながら言った。
「今日、あんたの家に来たのが本当に従姉だって、どうして確信できるの?」
ふいに、心臓がドクンと音を立てた。