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娘の嘘が壊した家族 / 第4話:揺らぐ真実
娘の嘘が壊した家族

娘の嘘が壊した家族

著者: 斎藤 蒼


第4話:揺らぐ真実

数日後、私がスーパーで買い物をしていると、川島の母・川島春子さんに呼び止められました。

スーパーのレジ袋を手にしていた私は、声の主に振り返りました。春子さんは、目に力がなく、背中を丸めていました。

彼女は震える手で五十万円と明治の牛乳の箱を私に押し付け、「どうか息子を助けてください。川島を刑務所に入れないで」と懇願してきました。

駅前のベンチで、春子さんは何度も頭を下げ、涙をぬぐいながら訴えました。ベンチの座面は冷たく、和服の袖口が小さく震えていました。牛乳パックは手の中でじんわりとぬくもりを失っていきます。

川島はスクールバスの運転手として月給二十万円にも満たず、その大半を母親の治療費に充てていました。この五十万円は、きっと彼女の全財産だったのでしょう。

春子さんは「これで全部なんです」と小さくつぶやき、牛乳の箱を私の手に押し付けました。その必死さに、胸が締め付けられました。

私は丁重に断り、「判決はもう出てしまいました。今さら嘆願書を書いても減刑や仮釈放にしかならず、刑務所行きは避けられません」と伝えました。

「申し訳ありません」と深く頭を下げました。春子さんの肩が震えていました。

春子さんは首を振り、「嘆願書がほしいのではなく、理奈ちゃんに証言を撤回してほしいのです。息子がそんなことをするはずがない、信じてください。なぜなら……」と言いかけて、言葉を詰まらせました。

「なぜなら……」の先を、私は最後まで聞くことができませんでした。春子さんは涙で顔をくしゃくしゃにし、唇をかみ締めていました。

私はいら立ってお金と牛乳を返し、「お金を渡すより、良い弁護士を雇った方が息子さんのためになりますよ」と伝えました。

「お気持ちは分かりますが、ここでお金を受け取るわけにはいきません」と静かに言いました。春子さんは「そうですか……」とつぶやき、肩を落としました。

私の言葉が効いたのか、その後すぐに弁護士から書簡が届きました。送り主は川島の弁護人で、控訴審で無罪を主張するとのことでした。

白い封筒にきれいな字で書かれた弁護士事務所の名前が、妙に現実感を突きつけてきました。

さらに「もし勝訴した場合、理奈ちゃんの法的責任を追及し、保護者であるあなたも責任を問う」と強調していました。

手紙の文末には、「子どもの証言が虚偽であった場合、名誉毀損および損害賠償を請求する」といった文面も添えられていました。

私は笑って受け流しました。私は弁護士なので、こうした書簡が脅しに過ぎないことは分かっています。

「また来たか」と、どこか冷静に封筒を封印しなおしました。

しかし、他の親たちは違いました。訴えられることを心配し、グループLINEは大騒ぎになりました。

メッセージの数は一晩で百件を超え、どの親も動揺を隠せていませんでした。「誰も既読だけで返信しない」ことも多く、怒りや不安のスタンプが飛び交いました。

みんな私に「どうすればいいの?」とタグ付けして聞いてきます。私は正直に「控訴審で判決を覆すのはほぼ不可能です。和解を求めていないなら、川島側には強い証拠があるのかもしれません」と答えました。

「法的にはこちらに大きな落ち度はありません」とも伝えましたが、みんなの不安は消えませんでした。

私の言葉が不安を煽ったのか、数週間後、「スクールバス運転手痴漢事件、まもなく開廷。少女たちの正義は誰が守る?」というトピックがTwitterで話題になりました。

SNSのトレンド入りし、地元のニュース番組でも取り上げられるほどでした。

クリックしてみると、理奈を含む五人の子どもたちが短い動画に登場し、無邪気で可愛らしく、見る者の胸を打つ映像でした。動画の最後には、川島がスクールバスの下でオイル交換をしている写真が載せられ、薄汚れてみすぼらしい姿が映し出されていました。

子どもたちの笑顔と、最後の川島の姿。その対比が、見る者の感情を大きく揺さぶりました。コメント欄には「涙が出た」「こんな人間は許せない」といった言葉が並びました。

動画の意図は明白で、その効果も絶大でした。コメント欄は川島を罵倒する声であふれ、最も重い刑罰を求める声、獣以下だという声が圧倒的でした。

SNSには「人でなし」「一生出てくるな」といった過激なコメントも目立ち、社会的制裁の波が止むことはありませんでした。

この「スクールバス運転手痴漢事件」は一躍市内で有名になり、最初に慌てたのは他の親たちでした。川島は十年間スクールバスを運転していたため、誰が被害に遭っているか分からず、多くの親が自分の娘も被害者ではないかと心配しました。

地域の保護者会も臨時で集まり、子どもたちの安全について真剣に話し合われました。町内放送でも注意喚起が繰り返されていました。

親戚や同僚も、理奈が被害に遭ったと聞きつけて慰めに来てくれましたが、私はひどく居心地が悪かったです。

お見舞いの品や手紙がテーブルの上に積み上がり、私はどう返事を書いたらいいのか分かりませんでした。

世間の圧力を受けて、裁判所は静かに事件を処理することにし、控訴審の日程は何度も延期されました。

事件の噂が広がるたびに、理奈や家族への視線も変わっていくのを感じました。外出するのもためらわれるようになりました。

しかし、最も追い詰められたのは川島の母・春子さんでした。自分の子どもが被害に遭ったと疑う親たちが春子さんのもとに押しかけ、彼女が出てこないと家の壁に糞やペンキを投げつけました。

夜中に誰かがインターホンを鳴らし、窓ガラスを叩く音が響きました。春子さんはカーテンの隙間から外を見ることすらできなくなりました。

外に出ることができても、まるで道を歩くネズミのように誰も物を売ってくれず、病院でも冷たく扱われました。

買い物に行っても、レジで「お釣りがありません」と言われ、病院の受付でも「本日は予約がありません」と追い返されました。

こんな圧力には誰も耐えられません。ほどなくして、春子さんは裁判所の前で自殺しました。

新聞の地域面には「焼身自殺」の四文字が小さく載り、現場には近所の人たちが折り鶴や花を供え、回覧板では「火の元注意」とともに「地域の事件について冷静な対応を」と注意が促されました。通夜に訪れた人々の間でも、「あの家も気の毒に」とささやかれていました。

彼女は焼身自殺という、最も悲惨な方法を選びました。灯油のにおいが辺りに残り、現場には焦げ跡がしばらく消えませんでした。

炎の中で、彼女は「息子は無実です。なぜ信じてくれないのですか?」と叫び続けていたそうです。

誰もその叫びを止めることはできず、春子さんの声は冷たい夜空に消えていきました。

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