第3話:家庭と欲望の狭間で
理由は単純だ。私はもう三十二歳で、ここ二年ほどで太り始めていた。
鏡を見るたび、腹周りの肉が気になり始めた。年齢とともに自信も薄れていく。自分が「おじさん」と呼ばれる年になったと、時折ふと気づく瞬間があった。
この年齢になって、二十代前半の女の子が突然現れて「おじさん、お金も権力もいらない、ただあなたが好き」と言ってきたら——そんな戯言、信じるほど馬鹿ではない。
「現実はそんなに甘くない」と心の中で苦笑した。恋愛ドラマのようなことが自分に起こるはずもない、と割り切っていた。
だからこそ、美緒の率直さは私を失望させなかった。むしろ、妙な安心感を与えてくれた。
「変に夢を見せないところがいい」と思った。相手の下心をきちんと分かった上での付き合い。それが私には心地よかった。
これほど現実的な女なら、決して愛人から本妻の座を狙ったりしないだろう。
「この人なら、泥沼にはならない」と根拠のない確信があった。美緒の現実感が、私の心の歯止めとなっていた。
つまり、私が気をつけてさえいれば、咲にバレることはない。
慎重に行動すればいい。日本社会の隠し事は、丁寧さと用心深さでどうにかなる。
だが、その安堵感も長くは続かなかった。いずれ虚しさが心に忍び寄ってきた。
都内の夜景のように、心にぽつぽつと空虚な灯りがともる。安堵の裏で、次第に冷たい寂しさが広がっていった。