第2話:秘書の影と社内の噂
大学四年のインターンシップ。
春の朝、駅のホームに流れる発車メロディと、コンビニで買ったコーヒーの湯気が、緊張した朝に少しだけ安らぎをくれた。私はスーツ姿の学生たちの列に加わり、どこか背伸びをしている気分だった。
毎日イケメンの夫に会いたくて、迷わず潤一郎の会社で下っ端のインターンを選んだ。
夫婦であることは秘密。社内では名字も旧姓の「新井」で通していた。仕事中は徹底して距離を保った。
あまりにも目立たない存在だったので、潤一郎さえ私がいることに気づかなかった。彼の邪魔をしたくなかったし、気を散らせたくもなかった。
黙々とコピーを取ったり、書類をシュレッダーにかけたり……地味な作業に徹した。私の存在感は空気のようだった。
時々、他のインターンたちが潤一郎について話しているのを耳にした。私は静かに聞いているだけで、決して会話には加わらなかった。
昼休み、社員食堂の片隅でお弁当を広げながら、そんな話がよく聞こえてきた。社員食堂のトレーを持つ手の重さが、心にも響いていた。
「社長の佐伯さん、本当にかっこいい。三十五歳って男の黄金期だよね。」
「でも結婚してるのが残念。しかも奥さんはどこの誰かも分からない若い子らしい。」
「はぁ、私もそんな運があれば……」
みんな目を輝かせて噂していた。まさか隣に本人がいるとは、誰も思っていなかっただろう。
私が十八歳の時、潤一郎は私に告白した。交際初日から「君と結婚したい」と言い、すぐに指輪までくれた。
あの日のことは今も鮮やかに覚えている。夕暮れの公園、桜の花びらが舞う中、潤一郎は緊張した面持ちで、真剣に私を見つめていた。
私は夢中で受け入れた。
その場でうなずき、涙が出るほど嬉しかった。子供のように笑い合い、未来の約束を信じていた。
一年付き合って、婚姻届を出した。衝動的で無鉄砲だったけど、甘くて幸せだった。彼は夢のような愛をくれた——あまりにも激しく、あまりにも率直で、息もできないほど圧倒されて、まるで台風の中の葉っぱのようだった。
夜ごとに交わした言葉や、互いの体温。すべてが夢のようだった。自分が誰よりも愛されている自信があった。
このインターンがなければ、きっと彼の秘密には気づかなかっただろう。
会社の一社員として、彼の素顔を間近に見ることになったからこそ、知らなくていいことも知る羽目になった。
佐々木舞。潤一郎の秘書。大人の色気があって、美しく、いつも潤一郎の出張や会食に同行していた。会社のことなら何でも把握していて、時には潤一郎本人よりも詳しいこともあった。
舞さんは仕事もできて、物腰も柔らかい。そのせいか、社内外問わず人気があった。
だから、潤一郎が既婚だと知られていなかった頃、社内の誰もが舞を社長夫人だと思っていた。
「きっと、あの人こそが本当の奥さんだよ」とささやく声さえあった。舞さんは否定も肯定もせず、微笑んで受け流していた。
社員食堂で昼食の列に並んでいると、ベテラン社員たちがため息混じりに話していた。
「社長は本当に見る目がないよ。舞さんみたいな美人を大事にしないなんて。」
「舞さんは市役所の仕事まで捨てて、社長の秘書になったのに。」
「そのうち情熱が冷めたら、社長は離婚して舞さんと一緒になるんじゃない?」
日本の会社社会は、噂話が絶えない。年上の社員たちは、舞さんに肩入れしていた。
噂は絶えなかった。でも私は気にしなかった。だって、潤一郎と私の情熱は、毎晩証明されていたから。
家に帰れば、潤一郎は必ず私を抱きしめてくれた。二人だけの時間が、私のすべてだった。
——その日までは。