第1話:夫婦の秘密と春の影
結婚して三年目、私はまだ二十一にもなっていない大学四年生、夫の名は佐伯潤一郎。彼は三十五歳だ。
桜の花びらが舞う春のキャンパス。友人たちは就活イベントやゼミの話題で盛り上がり、私はその輪に入れず、少し距離を感じていた。自分の進路を、まだ決めきれていなかった。
——年齢差のある夫婦は珍しくないとはいえ、私たちのように大学在学中に結婚したケースは、友人たちの間でもちょっとした話題になる。潤一郎は落ち着いた大人の雰囲気で、どこか敷居の高い世界に生きている人のようだった。
専業主婦になるかどうかも、まだ決めていない。
同級生の多くは就職活動に余念がなく、ゼミや就活イベントの話題で盛り上がっていた。私だけが、少し浮いた存在だったかもしれない。自分の進路を、まだ決めきれていなかった。
そんなある日、潤一郎が業界の重鎮たちと世間話をしているのを、偶然耳にした。
都心のホテルラウンジ。革張りのソファに身を沈めた彼らは、グラスを片手に、いかにも慣れた調子で談笑していた。その輪の中に、潤一郎がいた。
「新井すずは若いだけで他に取り柄がない。佐々木舞と比べたら、知性もかなわない。」
「正直なところ、結婚はちょっと早まったかもな。若い子を養うのも、なかなか大変だよ。今離婚したら、損失も大きいしね。」
どこか他人事のように、婉曲的で皮肉混じりの口ぶりだった。それでも、胸の奥に突き刺さるものがあった。
私は振り返り、彼に離婚届を差し出した。
カバンの奥底にしまっておいた書類——それを取り出す指先が冷たくなり、ほんの少し震えていた。だが、迷いはなかった。潤一郎の視線が一瞬だけ揺れた。
白い紙に書かれた「私は何も持たずに去ります」という一文を見て、彼は長く息を吐いた。
その横顔は、どこか疲れて見えた。私のことを真剣に考えていた時期も、きっとあったはずなのに。
気前よさそうに装いながら、「じゃあ、慰謝料として二千万円はすぐに振り込む。困ったことがあれば言ってくれ。」と落ち着いた口調で言った。
計算高いのか優しさなのか、その言葉の真意を測りかねたが、私は静かに微笑んだ。
私は微笑んで断った。「私はまだ若い。やり直す余裕はあるから。」
言いながら、心の中で小さく拳を握りしめていた。再出発には、不安もあった。でも、きっと大丈夫。
彼は知らない——私の兄は東京の社交界で有名な存在、この街で誰もが一目置く人だ。ここ数年、潤一郎がその世界に足を踏み入れられたのも、兄の後ろ盾があったからこそ。
兄の名を出せば、大抵のことは丸く収まる。潤一郎もそのことを、どこかで分かっていたはずだ。
私と離婚する?彼の損失は、これから始まるのだ。
胸の奥で、静かにそう呟いた。私の戦いは、今からだ。