第3話:崩れる夜と兄の救い
その日もいつも通り、職場の空気はざわついていた。
ある日、会社の懇親会で、舞が酔っ払って潤一郎に告白した。
懇親会は、和風の料亭で行われた。座敷に並べられた膳の上には、季節の小鉢やお造りが並んでいた。
告白というより、最後通告のようだった。
舞は、潤一郎の心に自分がいるのかと尋ねた。
場の空気がピリッと張りつめた。周囲も息を潜めていた。
潤一郎は長い沈黙の後、「いる」と一言だけ答えた。
その言葉には、重い意味が込められていた。
そして舞を見つめて言った。
「君が心にいる。君なしではいられない。だから辞表も受理できない。いいか?」
潤一郎の声には、微かに焦りのようなものが滲んでいた。
舞は微笑み、日本酒を一気に飲み干し、バッグを持って去っていった。
着物の裾が畳をかすめる音と、障子が静かに閉まる音が残った。静かに消えていった背中が印象的だった。
その場は数秒間凍りついた。
誰もが言葉を失っていた。
そして、潤一郎は彼女を追いかけていった。
躊躇いもなく席を立つ姿を見て、周囲の社員たちは顔を見合わせていた。
その場にいたのは、みんな長年潤一郎と舞と一緒に働いてきた社員たちだった。
私も直接その場にいたわけではないが、みんなの動揺がLINEやSNSで即座に広まった。
私はその場にいなかったが、噂好きのぽっちゃりした女の子がこっそり動画を撮って送ってくれた。
「内緒だけど」と前置きした上で、LINEに動画が届いた。
彼女はLINEでメッセージをくれた:[今夜、社長と舞さん、何か起きると思う?]
女子トイレの個室で、私は携帯を見つめてしばらく考えた。
私は返事した:[……ないんじゃない?]
[大人だし、長年の仲だし、お酒も入って告白までして……何もないわけないでしょ?]
彼女の言い方に、妙な現実味があった。
私は強気に返した:[社長は既婚者だよ。ちゃんと一線を引くはず。それに、舞さんも愛人なんて望まないでしょ。]
[まあね、でも明日には分かるよ。]
その投げやりな言葉が、胸にひっかかった。
彼女の「明日には分かる」ってどういう意味かわからなかった——でも、トークを閉じた瞬間、答えが来た。
潤一郎からLINE。「今夜は帰れない。急な接待が入った。」
画面を見つめたまま、手が震えた。
胸が締めつけられた。
鼓動が速くなるのを感じながら、すぐに電話をかけた。
最初は出なかった。
着信音がむなしく響き、切れそうになったところでようやく繋がった。
何度もかけて、ようやく潤一郎が出た。
「ベイビー、ごめん、携帯マナーモードだった。どうした?」
潤一郎の口調はいつも通りだった。でも、どこかよそよそしさを感じた。
私は声を震わせないよう必死で、手のひらに爪を食い込ませた。
「今夜、本当に帰ってこないの?」
「うん、みんな集まってるから。帰れないよ。ベイビー、分かってくれ。」
声の向こう側から、複数人の笑い声が聞こえた。けれど、不自然な沈黙が時折混じっていた。
私は歯を食いしばった。「その飲み会に女の人もいるの?」
問いかけの声が少し震えてしまった。
彼は一瞬間を置いてから、笑った。「いないよ。いつからそんな詮索するようになった?潔白を証明するためにビデオ通話でもする?」
茶化すようなその口ぶりに、妙な違和感を覚えた。
その時、私は高級シャツがホテルのシーツに擦れる音を聞いた。
あの、かすかな布の擦れる音——耳に焼き付いている、二人きりの夜の記憶。
以前、二人で親密な時間を過ごした時、よく聞いた音だった。
思わず、息を呑んだ。
「……っ」
潤一郎の口から、かすかな声が漏れた。
それは、私しか知らない、あの時の声だった。
その瞬間、心のもつれが不思議とほどけた。
静かに、すべてを悟った。もう、後戻りはできないのだと。
三年一緒にいれば、あの声が何を意味するか、私はよく知っていた。激しい快楽の後、彼が無意識に漏らす声——本人も気づかない癖だ。
胸の奥が、静かに冷たくなった。
もういい。現場を押さえる必要なんてない。もう、裏切りは起きている。
頬が熱くなり、涙が浮かびそうになったが、必死にこらえた。
私は無理に笑って言った。「ビデオ通話なんていらないよ……見たら目が潰れそう。楽しんでね。私は寝るから。」
電話越しに自分の声がかすれていた。潤一郎には気づかれていないふりをした。
心が麻痺したまま、電話を切ろうとした。
携帯の画面が滲んで見えた。
潤一郎がまた口を開いた。声はかすれて低い。
「ベイビー、今夜は大きな契約が決まった。明日からみんな残業続きになる。しばらく帰りが遅くなるから、夕飯は待たなくていいよ。」
本当に残業?それとも舞との残業?もう、私にはどうでもよかった。
何も答えず、静かに通話を切った。
——
電話を切った。結局一睡もできなかった。
まどろみも訪れぬまま、朝日がカーテン越しに差し込んでくるのを見て、私は静かにベッドから起き上がった。
目の下にクマを作って出社すると、ぽっちゃりの子がさっそく昨夜の噂話をしに来た。
「絶対、社長と舞さん、昨夜何かあったよ。」
彼女の目は輝き、興奮を隠しきれていなかった。私はうつむき、そっとため息をついた。
私は少しだけ眉をひそめた。
「大丈夫?」と心配そうに覗き込まれ、私は無理に笑ってみせた。
彼女は続けた。「今朝、社長の服、しわくちゃだったし……昨日と同じ服だった。つまり家に帰ってないってことじゃない?」
コートの袖を指でいじりながら、彼女は声をひそめていた。
私はうなずき、彼女の観察力を褒める気力もなかった。
「舞さんも遅刻してきたし、すごく機嫌が良さそうだった。普段はてきぱきしてるのに、今日は別人みたいだった。」
「どう違ったの?」
彼女は少し考えて、「明るくて、色っぽくて、繊細になってた……自分で見てみなよ。」
ふと、オフィスの方からハイヒールの音が聞こえた。
顔を上げると、舞がタイトなスカートで颯爽と歩いてきた。
すらりとした脚線美に、皆の視線が集まっていた。
そのスカート、私は見覚えがあった。潤一郎と買い物に行った時、私も気に入ったがサイズがなくて、予約して潤一郎宛てに送ってもらうよう頼んでいた。
試着室で何度も鏡を見たあのスカート。まさか舞さんが履くことになるとは。
どうやら届いたのはいいが、受け取ったのは別人だったらしい。
舞は上機嫌で、みんなに「何が飲みたい?」と聞いておごっていた。みんな大喜びだった。
自販機で買った缶コーヒーを手に、皆が舞さんの周りに集まっていた。
私は隅っこで複雑な気持ちのまま、仕事で気を紛らわせようとしたが、無理だった。
パソコンの画面がぼやけて見えた。
ぼんやりと昼まで過ごし、デスクでコンビニ弁当を食べていた。
白いご飯の上にのせた梅干しも、今日は味気なかった。
舞は豪華なランチボックスの袋をいくつも持って潤一郎のオフィスに入っていった。一度入ると、午後いっぱい出てこなかった。
高級な料亭のロゴが入った袋が、ひどく眩しかった。
ようやく出てきたのは、ほぼ終業時間だった。
髪を結い直した舞さんが、爽やかな笑顔で出てきた。
ぽっちゃりの子が舌打ちしてため息をついた。「最近の道徳観はどうなってるんだろう。舞さんも、なんで既婚者を狙うかな。社長室に近い席の山本さんが言ってたけど、舞さんは入った瞬間、社長の腕に飛び込んで、ほとんどオフィスをホテルにしちゃってたって。」
その語気には、呆れと羨望が混じっていた。
彼女は山本さんがこっそり撮った写真を送ってきた。
LINEのトーク画面に添付された一枚の写真。舞が潤一郎の膝の上に座り、食事を食べさせている。二人の表情も姿勢も親密そのものだった。
「社長の奥さんがこれ見たら、どう思うんだろうね」とぽっちゃりの子がため息をついた。
私は無言でスマホを伏せた。
向かいの渡辺課長が眉をひそめた。「お互いに好意があるなら、噂話はやめなさい。」
課長の声には重みがあった。年長者としての矜持を感じた。
ぽっちゃりの子は気づかずに、「そうだよね。まさに愛人だもん」と冗談を言った。
空気が一瞬、凍りついた。
渡辺課長は不機嫌そうに帳簿を投げた。「暇ならこれを終わらせてから帰れ。」
ぽっちゃりの子はしょんぼりした。
机に頬を伏せて、小声で「ごめんなさい」とつぶやいていた。
私はこっそりLINEでメッセージを送った:[渡辺課長と舞さんは昔からの知り合いだから、あまり言わない方がいいよ。]
彼女は泣き顔のスタンプを返してきた。
私は慰めた:[帳簿、手伝うよ。早く終わらせて、焼き鳥食べに行こう。]
その一言で、彼女はすぐ元気になった。
その夜、残業を終えて焼き鳥を食べに行こうとしたら、渡辺課長にまた呼び止められた。
「お疲れ様。みんなで夜食でも行こう。」
課長の誘いは断りづらかった。会社の慣習だ。
断る間もなく、会社近くの居酒屋に連れていかれた。
壁に貼られた手書きのメニューや、煙草の香りが漂う店内。日本の夜の風景が広がっていた。
食事の後、カラオケに誘われた。行きたくなかったが、インターンの身では逆らえなかった。暗い隅で「パズドラ」をスマホで遊んでいたら、いつの間にか部屋がいっぱいになっていた。
昭和歌謡や最新J-POPが交互に流れるカラオケルーム。私はひたすらスマホに目を落としていた。
ふと、聞き覚えのある声がした。
潤一郎が業界の大物たちに囲まれて、主賓席に座っていた。
その姿は、堂々としていた。さすが社長、と周囲も一目置いていた。
最初はビジネスの話だったが、次第に話題はプライベートへ——子供、妻、親、義理の家族……そして愛人の話へ。
アルコールが入るにつれて、男たちの本音が漏れ始めた。
「舞さんのインスタ見たよ——『恋人がついに家族になった』って。潤一郎、ついに舞さんを手に入れたのか?」
その言葉に、みんながざわついた。
私は思わず耳をそばだてた。
心臓の鼓動が速くなった。
潤一郎は落ち着いて答えた。「あの日のことは知らないだろう。舞が辞めるって脅してきたんだ。彼女がいなきゃ会社が回らない。もちろん……俺も彼女なしじゃダメなんだ。」
その言い方に、妙な余裕があった。
「舞さんは愛人でいいのか?潤一郎、自分の立場を壊すなよ。」
誰もが社長の今後を心配していた。
「そうだよ、あの若い子と結婚するためにどれだけ頑張ったか、俺たち皆知ってる。愛人を持つのはともかく、奥さんにバレたら修羅場だぞ?」
「いや、舞さんが気にしないなら、あの子も気にしないだろう。」
「潤一郎に甘やかされてきたんだ、普通の生活には戻れないさ。たとえ愛人がいても、奥さんは騒がないよ。少なくとも佐伯夫人の座は守られる。立場は安泰だ。」
昭和の古い家父長制の名残のような空気。私はひどく居心地が悪かった。
皆が口々にそう言い、舞さえ黙らせておけば、家の奥さんも大人しくしているだろうと、潤一郎を褒め称えた。
誰もが自分の都合だけで語っていた。
隣のぽっちゃりの子が鼻をしかめて、私の耳元で「気持ち悪っ」とささやいた。「でも、彼らの言うことも一理あるよ。あの若い子、まだ卒業もしてないし、後ろ盾もスキルもない。騒いだところで損するだけ。……どう思う?」
彼女の現実的な視点が、逆に胸に刺さった。
私はうなずいた。「騒ぎにはならないよ。今どき、みんな理性的だから。」
嘘だった。心の奥は、波立っていた。
何事も冷静に処理できる。離婚だって——。
そう自分に言い聞かせていた。
その時、潤一郎がグラスを置いて言った。
「新井すずは若いだけが取り柄だ。舞ほど知的じゃない。でも舞のプライドを考えると、いつまで我慢してくれるか分からない。結婚したのを後悔し始めてる。若い子を囲うのにいくらかかる?今離婚したら、損が大きすぎる。」
酒の勢いも手伝ってか、あけすけな物言いだった。
つまり、計算していたのだ。
私は静かに唇を噛んだ。
確かに、私と潤一郎は法律上の夫婦。離婚となれば、婚姻期間中に得た財産は分割される。でも、潤一郎の望み通り、私は何も持たずに去ることもできる。それでも、私が何も持たずに去るための代償——それも彼が払うことになる。
私は無意識のうちに、ハンカチをきゅっと握りしめていた。
——
宴会がようやく終わり、舞が酔いつぶれた潤一郎を迎えに来た。二人が抱き合い、唇を重ねているのを遠くから見ていた。きっと長い間我慢していたのだろう、車に乗り込むとすぐに揺れ始めた。
夜の路地裏、薄暗い街灯の下、私は物陰からその光景を見つめていた。
私は、さっきの出来事をすべて静かに録画した。
証拠を残すため、スマホを胸元で握りしめていた。
そして、兄に電話をかけた。
「すず、どうした?こんな遅くに電話してくるなんて。」
兄の声を聞いた瞬間、心の奥底がふっと緩んだ。
私は堪えきれず、涙があふれた。
夜風が冷たく、涙が頬を伝った。
「おい、どうした?泣いてるのか?」
兄の声には、強い心配と怒りが混ざっていた。
私は言葉が出ず、嗚咽した。
人通りの少ない夜道で、ひとり泣きじゃくった。
兄はすぐに私の居場所を聞き、私は住所をつぶやいた。
「待ってろ、すぐ行くから。」
三十分後、兄が私の前に現れた。
真夜中の静けさの中、遠くで自動販売機の明かりがぼんやりと光っていた。兄のスーツ姿がやけに頼もしく見えた。兄がそっとコートを肩にかけてくれた温もりが、心にしみた。
私は道端の階段にうずくまって震えていた。
兄は自分のコートを脱いで私にかけ、静かに隣に座った。
「潤一郎はどこだ?」
「浮気した。」
声を絞り出すのがやっとだった。
兄は固まった。顎を食いしばった。「どこだ?ぶっ飛ばしてやる。」
強面の兄が本気で怒る姿は、久しぶりだった。
私は兄の手を握り、首を振った。「いいの。兄さんの手を汚すだけだよ。」
兄は悔しそうに地面を踏みつけたが、まだ納得していなかった。
「離婚するのか?」
私は迷わずうなずいた。
「誤解ってことはないのか?」
首を横に振り、スマホを取り出した。
私はスマホの動画や写真を全部兄に見せた。多くを語らなくても、兄はすぐに腹を決めた。
兄の目が鋭くなり、静かにうなずいた。
すぐに兄は携帯を取り出し、何件も電話をかけ始めた。一つは弁護士の友人に離婚協議書の作成を依頼するため。もう一つは潤一郎と取引のある業者へ——契約未締結のものは締結しないよう、契約更新のものは更新せず、継続中のものは割引を撤廃し市場価格に戻すよう指示した。
兄の手際の良さに、さすがだと内心思った。
電話を終えた兄は私の手を取った。「さあ、家に帰ろう。」
安心したのか、体の力が抜けた。
私は首を振り、涙をこらえながら言った。「帰る前に、まず引っ越したい。」
兄はすぐに私を潤一郎との家まで車で送ってくれた。その家は潤一郎が買ったもの。未練はなかった。
マンションの明かりが遠ざかっていく車窓を見つめながら、心の中でそっと別れを告げた。
三年も住んだ家を、こんな形で出ることになるとは思わなかった。
最後に玄関のドアノブを握りしめ、深呼吸した。
「この家が欲しいなら、最高の弁護士をつけてやる。」
兄の言葉が、頼もしかった。
「いらないよ、兄さん。潤一郎が触れたものは、もう全部汚れて見えるから。」
そう言った瞬間、心の奥で静かに新しい扉が開いた気がした。
涙の跡が乾く頃、私はもう前を向いていた。
これから先、自分の足で立つ覚悟を胸に——。