第2話:壊れた約束と一夜の痛み
個室の中では、会話が続いていた。
ふすま越しに、くぐもった声が絶え間なく流れてくる。和室独特の静けさが漂い、座布団の沈みや、卓上の湯呑みのぬくもりが指先に残る。誰もが本音を隠して、軽口を重ねていた。
「そうだよ、もし彼女にバレたら、絶対キレるだろ?」
「三年もイケメンを囲ってて、そいつが一億円をポンと寄付するなんて、ドラマでも見たことないわ、はは。」
「で、タクミ、結局捨てる気なの?」
遠くから聞こえる笑い声が、なぜか耳に刺さる。誰もが悪気のない顔で、私のことを噂していた。
江越は手を上げて店員にもう一本頼み、無造作に言った。
「捨てる?まだ十分に楽しんでないよ。」
その瞬間、グラス越しの視線が鋭く私を刺す。手元のメニューも見ずに、当たり前のように注文する姿は大人びて見えたが、顎に手を当てて一瞬だけ目を伏せる。その表情には、ほんの僅かな迷いがよぎる。悪戯っぽく笑う目尻の赤いほくろは、初めて出会った日のことを思い出させた。気まぐれな猫のような、彼の本心は読めない。
「どう思う?別れ話でもして、ちょっと脅かしてみようかな。だって俺の月給は三十万しかないし、いつまでも足を引っ張るわけにはいかないだろ?」
「タクミ、そんなことばっかりしてたら、本当に彼女に捨てられるんじゃない?」
「分かってないな。兄貴は何度も別れ話を持ち出してるけど、毎回文井は泣きながらすがってくるんだよ。」
グラスを回しながら、どこか勝ち誇ったように笑っていた。まるで自分だけが知っている世界があるかのように。
江越はそれが楽しいのか、グラスをその方向に持ち上げた。氷がカランと音を立て、テーブルの上にわずかな水滴がこぼれる。乾杯の仕草が、妙に形だけのものに思えた。
乾杯された相手は、慌てて自分のグラスを掲げた。指先が震え、どこか落ち着かない様子だった。形だけでも仲間でいたい、そんな必死さがにじんでいた。
近くの誰かが舌打ちした。
「哀れだな、捨て犬みたいに誰にも相手にされず、ただ利用されてるだけ…」
声にほんの少しだけ憐れみが混じる。けれど、誰も本当のことなど気にしていない。
個室の外で、私はもうこれ以上聞いていられなかった。足が鉛のように重く、ふらふらとその場を離れた。
雨で濡れた廊下を、音を立てずに歩く。背中にしみる冷たさが、余計に心を沈ませた。
ポケットに手を入れ、指先が指輪の箱に触れた瞬間、火傷したようにそれを引き抜いた。
小さな箱の冷たさが、指先から心臓まで突き刺さる。あんなに大切にしていたのに、いまはただ重いだけだった。
背後の個室は、次第に静かになっていった。雨の音だけが遠くから聞こえ、誰もが言葉を失ったような空気が漂っていた。
江越は椅子にもたれ、片手でワイングラスを回しながら、無表情で先ほどの発言者を見つめていた。目の奥に何か炎のようなものが灯る。だが、感情は決して表に出さない。それが江越タクミという男だった。
皆、彼の表情を固唾を呑んで見守っている。
グラスを持つ手が少しだけ震えていたが、誰もそれに気づかないふりをしていた。
彼らも東京の名家の息子たちだが、その中にも格差がある。どんなに育ちが良くても、江家のような由緒ある家には及ばない。それが空気を支配していた。
家紋の入った漆塗りの箸、さりげなく置かれた高級な腕時計。すべてが、彼の家の重みを語っていた。
「タクミ、飲みすぎました。姉さんに悪口を言ってすみません。」
頭を深々と下げ、頬を自ら叩く。日本の男らしい謝罪の作法が、妙に痛々しく見えた。
男は自分の頬を思い切り叩き、何度も謝った。指先が赤く腫れ、目の奥には悔しさが滲んでいた。誰もが見て見ぬふりをしている。
他の者たちも場を取り繕う。「バカだな、姉さんは東都大学の研究員だぞ?高学歴だし、お前が口を挟む資格ないだろ。」
ため息混じりの声。東都大学という名前が、空気をさらに引き締めていた。
男の頬が腫れ上がった頃、ようやく江越が軽く口を開いた。「もういい。」
短く、しかし絶対的な一言だった。誰もそれ以上口を挟めない。
「橘家の人間だろ?製薬会社の。」
冷静な視線が男を射抜く。肩書きだけでは決して逃れられない世界がある。
橘 凌(たちばな・りょう)はすぐに頷いた。彼もまた、家の名を背負って生きてきた。それが、この場での最低限の礼儀だった。
江越は体を乗り出し、頬杖をつきながらグラスを掲げた。グラスの中のワインがゆっくりと揺れ、赤い液体が彼の表情をぼんやりと照らしていた。
「東都の最新研究…」
言葉の先に、何か計算されたものがにじむ。
「タクミ、分かりました、分かりました。姉さんに敬意を表す機会をいただき、ありがとうございます。」
必死で取り繕う声。橘は、冷や汗をかきながら深く頭を下げた。
言い終わる前に、橘は慌てて口を挟んだ。空気を壊さぬよう、誰もが手早く話をまとめようとしていた。
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私はぼんやりと帰路についた。
街灯の下、雨に濡れたアスファルトがきらきらと光っている。息を吐くと白く、もう秋の終わりを感じた。
耳に残るのは、さっきの言葉ばかり。まるで耳にこびりつく雑音のように、何度も繰り返し思い出されていた。
「本当にバカな女だ、騙されて当然。」
「三年前、タクミは賭けに負けてカラオケでホストのふりをした。」
「前の女たちはみんな遊びだと分かってたのに、あいつだけ本気で信じてた。」
ため息をつきながら、アパートの鍵を指の間で回す。自分の影が、路地裏の壁に長く伸びていた。
なんて無知だったんだろう。言い訳もできないほど、ただ自分を責めるしかなかった。
穴だらけのセーターが最新のヨウジヤマモトだなんて知らず。ファッション誌を立ち読みしたこともない自分が、場違いな場所にいたのだと痛感した。
無造作に付けていた銀のチェーンウォッチが、何百万もするロレックスだとも知らなかった。
彼の所作ひとつひとつが、普通の人間ではないと薄々気づいていたはずだった。
父親がギャンブルで、母親が病気だと言われ、私自身の過去を重ねてしまった。
自分の家庭と重なる境遇に、つい共感してしまった。それが、すべての始まりだった。
日本ドラマの主人公のような顔を見て、無性に愛しさが込み上げた。どこか切なげな笑顔。その裏側の孤独に気づけなかった自分が、いっそう哀れだった。
でも、彼はすべてを計算していたなんて、夢にも思わなかった。
ほんの少しの優しさを、全部本気だと信じてしまった自分が情けない。
「チッ、そんな話を信じるなんて、本当にバカだな」
自嘲気味に、舌打ちが心の中で響いた。
私は心を込めて彼を更生させようとした。一緒に求人誌を開き、履歴書の書き方まで教えた。まるで母親のように、彼の将来を心配した。
ちゃんとした仕事を探すのも手伝った。面接用のシャツをアイロンがけし、ネクタイの結び方を繰り返し練習した。
研究助手の給料は月に数万円しかなかったけど、彼のために二万円もするスーツを買ってあげた。
自分の服は古着屋で間に合わせ、カフェでのバイト代も彼のために使った。自分は三年間、同じトレンチコートを着続けていたのに。
冬の終わりごとに、少しずつ色あせていくコートを抱きしめながら、自分に言い聞かせていた。「これでいい」と。
彼はいつも目を細めて、気ままに笑う。その笑顔は、どこか人懐っこくて、甘い匂いがした。
「きれいなお姉さんにこんなによくしてもらったら、ちゃんとお返ししないとね。」
ふざけたような、でもどこか本音が混じるその言葉。私は何度も胸が高鳴った。
そう言って、私を抱きしめ、甘えた声でじゃれてきた。腕の中で彼の体温を感じるたび、全てを許してしまいそうだった。
二十歳の若者が初めて禁断の果実を味わい、その後は止まらなくなった。
畳のきしむ音、壁越しに聞こえる隣人の足音。二人だけの世界がそこにはあった。
古いアパートの壁は薄く、声を殺そうとすればするほど、彼は容赦なかった。
私は恥ずかしさと快感が入り混じった夜を、何度も過ごした。朝になると、隣の部屋の音が気になって仕方なかった。
毎回、私は何度も小さな声で許しを請い、ようやく解放された。
小さな声で「ごめん」と言いながら、彼の腕の中で眠りに落ちた夜もあった。
彼はハンサムで、甘え上手で、料理も得意だった。
休日には自炊して、私の好きな卵焼きや味噌汁まで作ってくれた。ふたりの台所は、いつも温かい空気で満ちていた。
私は本気で、一生一緒にいるつもりだった。
将来のことも、何度もふたりで語り合った。どこかで家族になれると信じていた。
指輪を買うため、バイトを二つも増やして、プロポーズする計画まで立てていた。
小さなジュエリーショップで、何度もショーケース越しに指輪を眺めた。手が震えても、夢だけは諦められなかった。