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偽りの恋と一億円 / 第1話:嵐の夜、崩れゆく日常
偽りの恋と一億円

偽りの恋と一億円

著者: 塚本 誠


第1話:嵐の夜、崩れゆく日常

江越(えごし・タクミ)と一緒に借りアパートで暮らし始めて三年目、激しい台風の雨が私たちの家を容赦なく打ちつけた。

雨戸を必死で閉めても、細い隙間から水がじゅわっと畳に染み込み、畳の感触がじっとりと冷たい。外ではごうごうと風が唸り、時折何かが飛ばされる鈍い音が響く。テレビからは台風情報が絶え間なく流れ、部屋の中には湿った畳とカビ臭、土の匂いが混ざり合ってこもっていた。

私は江越の肩にもたれながら、惨めさで胸がいっぱいになっていた。

濡れた髪が頬に張り付き、あたたかなはずの彼の肩がなぜか遠く感じる。指先は冷えきって震え、畳の上で体を丸めるしかなかった。ため息が自然と漏れる。

江越はふと私を見つめ、「ごめん」と低く呟いた。その表情にはわずかなためらいと、何かを決意した影が走る。彼はスマホを手に取り、数秒だけ画面を見つめてから、一億円の寄付手続きを進める。指先が一瞬止まり、深く息をつくと、静かに送金ボタンを押した。寄付が完了したあと、彼はしばらく無言で画面を見つめ、空気に重たい余韻が残った。

東京の若い御曹司たちが集う高級料亭のカウンター。障子越しに街の明かりがほのかに漏れ、個室の畳には座布団が並び、卓上の湯呑みから湯気が立つ。低く響く笑い声が、静けさの中に溶けていた。

「あんなに金持ちのお嬢様たちが君を狙ってるのに、なんで貧乏人と遊んでるんだ?」

ネクタイを緩めながら肩で笑う声。グラスを傾ける音と、おしぼりの温かさが手に残る感触が妙に現実的だった。

江越は狐のような切れ長の目を細め、静かに微笑んだ。その目元だけに影が差し、口角をわずかに上げる仕草は、昔から変わらない。和服でも似合いそうなしなやかな笑みだった。

「俺の彼女は指輪のために一日三つもバイトしてる。あいつらにそんなことできるか?」

自慢というより、誇らしさと照れが入り混じる声音。聞く人によっては冗談にも本気にも聞こえる曖昧さ。

「でも、もし本当に彼女がプロポーズしたら?もうすぐ橘家と婚約するんじゃないの?」

「遊びで付き合ってるだけで、本当に嫁にする気あるのか?」

その言葉に場の空気がひやりと冷える。高級料亭の個室、水墨画の前で、誰もが小さな緊張を感じていた。

少しの沈黙の後、江越の声が低く固くなった。

「それに、文井(ふみい)は絶対に知らない。一生知ることはない。」

その声の奥に、冷たい決意のようなものが混じっていた。グラスの氷が静かに溶けていく音だけが響く。

彼は知らなかった。私はその扉のすぐ外、廊下の薄暗がりで、ふすま越しに立ち尽くしていたことを。

誰にも見られないように、静かに涙をこらえながら、壁に背を預けていた。心臓の鼓動が、和室の静けさに溶けて響いていた。座布団の柔らかさ、卓上の湯呑みのぬくもりが妙に遠く感じられる。

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私は土砂降りの雨の中、江越を探して走った。

アスファルトに激しく叩きつける雨粒。傘を差す余裕もなく、ただ必死で彼の名前を心の中で呼び続けた。

研究室から借りた白衣はびしょ濡れで、肌に冷たく貼りつく。

ポケットの中まで水が染み込み、白衣の裾が重く足に絡みつく。コンビニの明かりも雨粒で滲み、ぼんやりとしか見えなかった。

でも、あの言葉の方が寒さよりずっと辛かった。一言一言が氷の錐のように胸に突き刺さり、震えるほど痛かった。

心が真冬の川に投げ込まれたみたいに、どうしようもなく冷えていく。手のひらを握りしめても、涙だけが止まらなかった。

この章はここまで

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