第3話:水没した家と揺れる心
帰り道、江越がいつも使うJRの駅を通りかかった。
駅前には浸水の影響で、交通規制のコーンがずらりと並んでいた。発車メロディがどこか間延びして響き、緊急アナウンスの声がスピーカーから流れる。濡れた制服姿の学生たちが足早に駆け抜け、見慣れた風景がどこか異質に感じた。
入口には人だかりができていて、消防士や救急スタッフ、救助されたばかりの人たちもいた。
土砂降りの中、救急車のサイレンが遠くで鳴り響き、誰もが慌ただしく動き回っていた。
私は足を止めた。息を切らして、しばらくその場から動けなかった。スニーカーの中まで雨がしみて、冷たさがじんわりと広がる。
スマホが震えてLINEメッセージが届く。
胸ポケットでブルブルと振動する。画面を見つめる指が少しだけ震えていた。
「お姉ちゃん、スマホ水没して、やっと直ったよ」
「小さなケーキ買ってきた。もうすぐ帰るね〜」
絵文字はハートを抱えた子犬のイラスト。
画面いっぱいに広がる子犬のイラストに、思わず力が抜けた。
キャプション:「小犬ちゃんはお姉ちゃんが一番好き」
なんだか泣き笑いになりそうだった。こんな夜でも、誰かの優しさは不意に届く。
しばらく呆然とした。心の中がからっぽになったような、妙な静けさが広がっていた。
長い沈黙のあと、私はスマホを持ち上げて返信した。
震える指で、画面をタップする。入力し終えるまで、何度も言葉を考え直した。
「私は駅のA出口にいるよ」
駅名の看板を見上げる。すぐそばにはファミリーマートの緑の看板と、ガチャガチャの列が並ぶ。雨粒がスマホの画面を濡らしていた。
ほどなくして、江越が角から現れた。
人混みの中でも、ひときわ目立つ存在感。傘も差さず、びしょ濡れのまま歩いてくる。
背が高く細身で、赤い唇に白い歯、肌は透き通るように白い。暗がりの中、彼の顔だけがやけに明るく見える。まるでモデルのような輪郭だった。
シンプルな白Tシャツにグレーのパーカー、濃紺のジーンズ。それだけで芸能人のようなオーラを放っていた。濡れた髪を手ぐしでかきあげ、首筋から滴る雫も絵になっていた。
周囲の女子高生たちが小声で「カッコいい…」と呟き、周囲の人たちも思わず彼を見ていた。ざわめきが小さく広がる。
「家で待ってろって言っただろ?」
濡れたままの髪を払い、低い声で私にだけ届くように囁いた。
彼はそう言いながら、上着を脱いで私にかけてくれた。自分の体は濡れたままなのに、何のためらいもなく私を優先する。温かさが肩にじんわりと広がる。
「お前はすぐ風邪ひくくせに、こんな雨の中出てきて…」
手のひらで私の髪をそっと撫でる。馴染みのある、松の葉のような微かな香りが私を包み、鼻の奥がツンとした。目を伏せて、涙をこらえた。
「中で死んでるかと思ったよ。」
声の奥に、ほんの少しだけ本気の心配が滲む。
私は駅の入口を指差した。視線の先、まだ人だかりが途切れない。頭の中は、混乱と不安でぐるぐるしていた。
泣き崩れるかと思ったが、声はかすれて、ほとんど囁きのようだった。
「駅にいるって言ってたのに、その後連絡がなくて…」
唇を噛みしめて、ようやく声を絞り出した。
「ニュースで駅が水没したって見たの。」
スマホの画面に映るニュース速報の文字。胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「怖くて仕方なかった。ずっと雨の中歩いてここまで来た。」
びしょ濡れのスニーカーを見下ろしながら、小さくつぶやいた。
「誰かに止められても、行かせてくれなくても、『彼氏がまだ中にいるんだ。死ぬなら一緒に死ぬ』って言った。」
自分でも大げさだと思うのに、それしか言葉が出てこなかった。
「江越タクミ——」
涙で滲んだ視界の中、必死で彼の名前を呼んだ。
私は目を赤くして彼を見上げた。まぶたの裏が熱く、視界がぼやけていた。
「私が命がけで心配してた時、あなたはどこにいたの?」
雨音の中、彼の表情がゆっくりと変わる。その一瞬が、永遠に感じられた。
彼は長いまつげを伏せ、いつもの笑顔も、その奥の嵐も隠した。小さな溜息と共に、肩をすくめる。何もかもが静かに流れていく気がした。
もしかしたら、遊びが思ったよりも本気になってしまったのかもしれない。ふと、そんな考えが頭をよぎる。だけど、心の底ではまだ信じきれない。
あるいは、内心で私を嘲笑っていたのかもしれない——こんな馬鹿な女、と。胸の奥がひどく痛んだ。
彼はただ顔を横に向け、軽く笑って答えた。
「もちろん、ケーキを買いに行ってたんだよ、お姉ちゃん。」
声色はやわらかいが、どこか遠い。思わず手を握りしめてしまった。
違う——あなたは金持ちの仲間たちと遊んでいた。
私の真心を踏みにじり、容赦なく笑いものにした。
問い詰める前に、彼はくるりと背を向けてしゃがみ込んだ。ランドセルを背負う子どものように、少しだけ背中が小さく見えた。
「ほら、帰ろう。ほんとに風邪ひくぞ。」
ため息をつきながら、優しく手を差し伸べてきた。
江越は私をおぶって、腰まで泥水に浸かりながら歩いた。アパートまでの道は、雨で川のようになっていた。背中の温かさに、涙が止まらなかった。
耳元で、自分の声が小さくこだまする。
「帰ってどうするの?江越タクミ、私たちの家はもうないよ。」
雨に濡れた声が、夜の静けさに溶けていく。彼の背中にしがみついたまま、ただ小さくつぶやいた。
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私たちが借りていたアパートは90年代築の古い一階で、排水も最悪だった。
玄関先のコンクリートはひび割れ、郵便受けにはチラシがたまっていた。昭和の名残を感じる造りだった。
ドアを開けると、中は大混乱。畳もじゅうたんも泥で覆われ、冷蔵庫は傾き、家具も水に浮いていた。
1メートルほどの泥水に、江越が買ってくれたペアの歯ブラシ立てや、お揃いのスリッパ、丁寧に飾った写真の壁が浮いていた。
キッチンの鍋も、リビングのぬいぐるみも、すべてが波に揺れていた。
写真には、誕生日にケーキを塗り合ったり、大晦日に一緒に花火をしたり、手でハートを作ったり…それぞれの日の思い出が、にじんで水の中でゆらゆらと揺れていた。
たくさんの甘い思い出が、水で歪み、ぼやけていた。壁に貼ってあったプリクラも、色あせてはがれかけていた。
「全部ダメになっちゃったな。もう何も見えない。」
江越は私を下駄箱の上に座らせ、一枚一枚写真を拾い上げながら、だんだん眉をひそめていく。濡れた写真をそっと指でなぞり、時々ため息をついた。目の奥に、悲しさと後悔が滲んでいた。
私は口を開きかけた。この沈黙が、胸に重くのしかかった。もし全部が遊びだったなら、この思い出に未練なんてあるの?問いかけたかった。でも、言葉にはならなかった。
でも結局、ただ淡々と言った。
「なくなったものは仕方ない。大したことじゃないよ。」
声の奥が少しだけ震えていた。
「大したことない?これが大事じゃなかったら、何が大事なんだよ?」
江越は困惑したように私を見つめ、少し傷ついた目をした。しばらくの間、ふたりの間を静かな雨音が埋めていた。
三年間も女の子を騙して得た戦利品だから、そんなに大切なの?心の中で問いかけるだけで、唇は固く閉じたままだった。
私は手のひらを握りしめ、唇を噛み、何も言わなかった。爪の跡が残るほど、手を強く握りしめていた。
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家は水没して住めなくなった。畳の上に残った泥のにおいが、いつまでも鼻について離れなかった。
近くのビジネスホテルはどこも満室か、法外な値段をふっかけてくる。台風被害で、どのホテルもフロントが大混雑していた。ロビーのソファには、避難してきた家族連れが横になっていた。
またしても一泊四万円だと言われた。普段なら絶対に泊まれない値段。財布の中身を数えて、ため息しか出なかった。
仕方なく、ホテルのロビーの壁際で、人混みに紛れてこれからの行き先を考えた。自販機の隣、缶コーヒーの落ちる音が響き、ロビーにはピアノのBGMと避難民のざわめきが漂っている。ガラス越しに見える外の雨、時折、ホテルスタッフが声をかけて回っていた。
隣では、数人の若い女性たちが雑談している。ブランドの傘やカバンを持った、どこか余裕のある声。話題はいつも、恋やお金のことばかりだった。
「はあ、私にもいきなり金持ちの男が現れて、何もせずに百万くれたりしないかな?」
「やめてよ、今のトレンド見た?橘瑠璃(たちばな・るり)が羨ましいよ。」
「トップ女優なだけじゃなくて東京のお嬢様、婚約者は一億円をポンと寄付したんだって。ヤバすぎ。」
「しかも二人の名前で寄付してる。本物の愛だよね。」
SNSの話題やゴシップが、まるで現実味を持たずに飛び交っていた。
背後で、江越の体がピクリと強張り、私の耳元に顔を寄せて甘えるように囁いた。
「お姉ちゃん、四万円でもいいじゃん。ここに泊まろうよ?」
耳たぶに息がかかる。冗談めかした声色が、少しだけくすぐったかった。彼の温かい体が、私の背中に震えるように触れている。
やせ細った腕、濡れたTシャツの感触が、妙に生々しかった。もう秋も深い。私に上着をかけてくれて、彼自身はTシャツ一枚のままだ。肩先が小刻みに震え、それでも私の手をそっと握ってきた。
以前なら、私はきっと彼を気遣い、給料の三分の一をはたいてでも甘やかしていただろう。財布の中の千円札を数えて、ためらいなくホテル代を払っていただろう。
でも今は、彼の太ももをつねって、冷たく言い放った。
痛みに顔をしかめて、ほんの少しだけ目を細めた。
「自業自得でしょ。自分のせいよ。」
声の奥に、これまでにない冷たさが混じっていた。言葉にした直後、自分でも驚くほど胸が締めつけられた。強い言葉を吐いたことで、悲しみと怒りが入り混じる複雑な感情が湧き上がる。
少し間を置いて、皮肉っぽく笑った。唇の端をわずかに上げ、目線をそらした。
「もし誰かの婚約者みたいに、一億円をポンと寄付できるなら、私だってこんな苦労してないわ。」
吐き捨てるように言葉を継いだ。心のどこかで、自分でも驚くほど冷静だった。
言い終わるや否や、私は激しく咳き込んだ。喉の奥が焼けつくように痛み、涙があふれた。
江越は優しく背中をさすってくれる。大きな手が、ゆっくりと円を描くように私の背中をなでていた。
ようやく落ち着いた頃、彼は顔を寄せて、かすれた声で私の耳を軽く噛んだ。ほんの一瞬、昔の甘い日々を思い出させる仕草だった。
「分かったよ。お姉ちゃんは俺が貧乏すぎるって思ってるんだろ?」
「俺のせいだよ。大きな家も用意できないし、風邪までひかせて、寒さで震えさせて、泊まる場所すら見つけられない…全部俺が悪い…」
目の奥に、本気の後悔がにじんでいた。どこか子どものような顔つきだった。
もう泣かないと思っていた。それでも、こみあげるものをどうしても止められなかった。
でも、彼がこんなにも真剣に『もっといい暮らしをさせてやれない』と口にした途端、心の奥の固くなった部分が、ほんの少しだけほぐれた気がした。
私はまた涙が滲んだ。肩先にぽろぽろと涙が落ちていく。誰にも見せたくない顔だった。
これまでの日々と同じだ。彼は私が生活にすり減っていくのを見て、私が自ら苦労を選ぶのを見ていた。そして、少しきれいな言葉を並べるだけ——でもそれは空虚だった。心にぽっかりと空いた穴を、埋めることはできなかった。
もしかしたら、そんな私を見て楽しんでいたのかもしれない。自分でも、どこまでが本心で、どこまでが演技か分からなくなっていた。
「そう、全部あなたのせいよ。」
涙声を隠さず、しっかりと伝えた。言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが崩れる音がした。彼の目をまっすぐ見つめたまま、一歩も引かなかった。
江越はそこで口をつぐみ、無表情になった。長い沈黙。互いの呼吸だけが小さく聞こえる。
そう——今までなら、彼がこんなふうに言えば、私は必ず慰めていた。何度も彼の頭をなで、優しい言葉をかけてきた。それが「愛」だと信じていた。
「自分を責めないで。私はあなたが可哀想だと思う。本当にそう思ってるの、分かる?」
いつもなら、そのひとことで空気が和らいだ。今夜は違った。
でも今は、私は彼の目をしっかり見て、一語一語はっきりと言った。自分の人生を賭けたつもりで、心の底から問いかけた。
「で、どうするの?月給三十万で、東京じゃトイレすら借りられない。私の人生、全部無駄にするつもり?」
「本当に、ずっとあなたとこのままアパート暮らししたかったと思ってるの?」
静かな怒りと諦めが、声に滲んでいた。
江越は呆然とし、しばらくしてようやくぎこちなく笑い、手を上げた。目をそらしながら、無理に明るく振る舞おうとしていた。
「俺…俺、残業もできるし——」
言いかけた声が、ロビーのざわめきにかき消された。
もう嘘は聞きたくなくて、私は彼を突き放した。その瞬間、心の奥で何かがプツンと切れた気がした。
「冗談だよ。」
わざとらしく明るい声で笑った。けれど、自分の中で何もかもが変わってしまったと悟った。
視線の端で、江越の強張っていた肩がふっと力を抜いたのが見えた。ほんの一瞬、安堵とも諦めともつかない表情が浮かんでいた。
私たちの未来は、もう誰にもわからなかった——。