第3話:理不尽な財務規定と限界
席に戻り、精算額を修正して再度経理に持っていった。
(パソコンのエクセルシートで金額を一つ一つ修正する。自分の出費を「会社の規定」に合わせて削る作業が、なにより虚しかった。)
「山本さん、じゃあこうしましょう。宿泊費は1泊7,000円、食事は1日1,000円で精算してください」
(言葉に滲む疲労を隠せない。山本さんの机の上には、色褪せた招き猫の置物が目に入る。何のご利益も感じられなかった。)
山本さんは申請書を一瞥し、また突き返した。
「精算できません」
(ぴしゃりとした口調。相手にするのも面倒くさい、という雰囲気が漂う。)
「もう会社の規定に従ってるのに、なぜですか?」
「伝票の金額と精算額が一致しません」
(決まり文句だ。どこかでテープレコーダーでも流しているのだろうか。)
「大丈夫です。伝票の金額が精算額より高いだけです。会社の規定通り処理してください。税法上も認められてます」
「国が認めても、社長が認めません。社長は金額を完全一致させろと言ってます」
(理不尽さに頭がクラクラする。こんなルール、どこの会社にもあるものなのかと疑いたくなる。唇を噛みしめて視線を落とし、スーツのポケットの中で指先に爪を立てる。)
さすがに堪忍袋の緒が切れそうだった。
(つい、声が震える。指先で机の端を何度もなぞって気を紛らせる。)
「山本さん、もう1年近く精算できてません。会社のために35万円以上立て替えて、今はこの馬鹿みたいな規定に従って28万円しか請求してないんです。処理してくれませんか?」
(目の奥がじんわりと熱くなる。意地でも涙は見せまいと、口を引き結ぶ。)
「斎藤マネージャー、これは社長の指示です。社長のサインがあれば、いつでも精算します」
(また同じ言葉。諦めの色が強い、鉄壁のガードだ。)
その頑なな表情に、またしても社長のもとへ行くしかなかった。
(自席で軽く身だしなみを直し、深く一礼してから社長室へ。廊下を歩く足取りがどんどん重くなる。)
「社長、経理が伝票の金額が高すぎると言ってます。サインが必要だそうです」
申請額が7万円以上減っているのを見て、社長はにやりとした。
(まるで「勝った」とでも言いたげな笑み。人の苦労をなんだと思っているのか。)
「斎藤、大きな会社は個人の情で動かない、規則が必要だ。これを授業料だと思いなさい。普通なら会社は認めないが、今回は特別に認めてやる」
(恩着せがましい口ぶりに、うっかり拳を握ってしまう。心の中で何度も深呼吸を繰り返す。唇を噛みしめて、怒りを堪えた。)
サインをもらい、社長は7万円以上をポケットに入れたような顔でご満悦。
(手元の印鑑をカチリと鳴らし、満足げな表情。こっちの気持ちなど、まるで理解していない。)
サインをもらって、急いで経理に戻った。
(書類の端をしっかり揃え、廊下を小走りで駆ける。少しでも早くお金が戻ればと思い、必死だった。)
だが、またもや申請書を突き返された。
「精算できません」
(無表情。微動だにしない山本さんの顔。時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえた。)
血圧が上がるのを感じた。
(首筋に汗が滲む。手のひらをぎゅっと握る。これ以上、どうすればいいというのか――心の中で叫んだ。)
「今度は何が問題なんですか?」
「社長の規定で、月ごとの精算上限は5万円です。7ヶ月に分けて申請し直してください」
(5万円ずつ、7ヶ月…途方もなく手間がかかる。領収書もそのたびにまとめ直さなければならない。途方に暮れるとはこのことだ。)
必死に冷静さを保ち、深呼吸した。
(胸の奥まで空気を入れ、心拍数をゆっくり下げる。感情を表に出したら、もう何もかも終わってしまいそうだった。)
「山本さん、一度に全部教えてくれませんか?」
「会社の財務規定はそこに貼ってあります。読まないあなたが悪いです」
(壁の一角、A4の紙に小さな字でびっしりと書かれた『財務規定』。誰がこんな所まで見に来るのか。思わずため息が漏れる。)
ふと見上げると、確かに壁に通知が貼ってある。でも、誰が経理室の壁を見に来るんだ?
(経理室の中は、普段は社員すら入ることの少ない場所だ。こんなルールを周知する気など最初からないのだろうかと、皮肉を噛み締める。)
もう爆発寸前で、声も大きくなった。
(普段なら絶対に抑える声量で思わず語気を強めてしまった。周囲の視線が痛いほど突き刺さる。)
「この精算は、私が会社のために立て替えたお金です。会社が私に返すべきもので、ボーナスや給料じゃありません。35万円も使って、7ヶ月かけてしか返してもらえないんですか?利息はどうするんです?」
(手元のペンがカタカタと震える。自分の生活がここまで追い詰められるとは、夢にも思わなかった。)
山本さんは、またしても「社長のサインがあれば、いつでも精算します」と繰り返すだけ。
(同じセリフを聞くたび、心の奥に冷たいものが流れる。人間じゃなくて機械に相手をしているような気分だった。)
また社長か。
(椅子の背もたれに深く腰を沈め、しばし天井を仰いだ。自分の無力さを痛感する。)
もう言い争っても無駄だと悟り、再び社長のもとへ。
(無言で書類をまとめ、廊下の蛍光灯が妙に眩しく感じる。靴音だけが響く社長室への道。)
「社長、経理が新しい規定だと。月ごとの精算上限が5万円だそうです」
「そうだ。規則だ」
(社長は、パソコンの画面から一瞬だけ目を上げる。その目には、まるで感情の揺れが感じられなかった。)
「私は毎月出張で、精算に戻る暇がありません。半年分以上溜まっていて、会社の基準で計算しても28万円を超えます」
社長は顔も上げず、「じゃあ分割して毎月申請しろ」とだけ。
(まるで他人事。こちらの事情は全く考慮しない。唇を噛みしめ、堪えるしかなかった。)
「でも、毎月出張で、1回の出張でほぼ5万円かかります。このままだと、28万円全部戻ってこないじゃないですか!これは会社のために立て替えたお金です!」
ようやくゆっくりと顔を上げ、「斎藤、規則なくして秩序なし。大きな会社には制度が必要だ。期限内に申請しなかったのは君の責任だ。それに、今回は特別に認めてやると言っただろう。なぜまた来るんだ?」
(「制度」「秩序」――その言葉が空々しく響く。何もかも個人の責任にされるこの空気。心の奥がズシリと重くなる。)
「社長、毎月末は現場で会議があって、本当に戻れません。どうやって精算すればいいんですか?」
「斎藤、君はいつも極端だな。方法を探したか?やってみないで無理だと決めつけるな」
(昔から「根性論」が大好きな社長だった。今時そんな精神論で何とかなる時代じゃないのに…)
「クライアントが出席を要求していて、本当に戻れません」
「申請書を書いて郵送すればいい」
マジか?会社がこんな馬鹿げた新しい規定を次々作るなんて、誰が予想できた?
(申請書を郵送したら、今度は「綴じ方が違う」と突き返されるのは目に見えている。まるでイタチごっこだ。)
実際、以前も郵送したことがあったが、伝票がホチキスで横に留められていないと経理に言われて、何ヶ月も放置された。もしそれを言えば、「なぜ横に留められないんですか?」と返されるだけ。
言い訳は尽きない。
(書類の山を前にして、ふと窓の外を眺めた。曇ったガラス越しに、都会の空が薄く見える。どこか遠い世界の話のような気すらしてきた。)