第2話:精算拒否と崩れるプライド
何ヶ月もかけて、数千万円規模のプロジェクトのために出張を続けてきた。やっと終わりが見えてきたというのに、突然出張費が精算できなくなった。
(出張用のキャリーケースはすっかり汚れ、スーツの裾も擦り切れている。地方の駅を転々とし、眠れぬ夜を何度も過ごした。プロジェクトの成功だけを信じて走り続けてきたのに――この仕打ちか、と虚しさが込み上げる。)
たまたまオフィスに戻ったとき、経理部に駆け込んだが、すぐに断られた。
(昼休みのチャイムが鳴る前、わざわざ戻ってきて、経理部の前で深呼吸。が、ドアを開けた瞬間、その期待はあっけなく打ち砕かれた。)
「精算は毎月末の週だけです」
(経理部の壁には、大きな卓上カレンダーが貼られ、赤ペンで『精算受付期間』と囲まれた日付。その横には季節のイラスト――桜の花びらや紅葉のシールが貼られ、事務所独特の空気が広がっていた。)
でも、毎月末は必ずクライアントとのプロジェクト総括会議があって、会社にいるわけにはいかない。
(会議室の窓から見える東京タワー。出張先からオンライン会議に参加することも多く、移動のスケジュールは常にギリギリだった。)
だから、月末の週の始めに急いで戻って精算申請し、また現場に飛び込む。そのたびに、宿泊費も食費も会社の基準を超えてしまう。
(駅の売店で急いでおにぎりと缶コーヒーを買い込み、移動の合間に電車の中で申請書を書き上げる。領収書がシワだらけになるのも、仕方がなかった。)
経理の山本さんは無表情で、同じことを繰り返すだけ。「社長がサインすれば精算します」
(決まったフレーズを繰り返すだけで、こちらの事情には一切耳を貸さない。その割り切りに、逆に感心すらしてしまう。)
仕方なく、申請書を社長のところへ持っていき、説明を試みた。
(社長室のドアの前で、スーツのジャケットを整え、深呼吸。何度も頭の中で説明内容を反芻し、失礼のないように言葉を選ぶ。)
「社長、東京で1泊7,000円のホテルなんて無理ですよ」
「試してもいないのに、どうして無理だって分かるんだ?」
(社長は眉間に皺を寄せ、腕組みをしている。目線はスマートフォンに落ちたまま。)
「カプセルホテルですら1泊8,000円ですよ。5,000円の安いゲストハウスを見つけたのが限界です。信じられないならネットで調べてみてください」
社長は鼻で笑い、スマホで検索し、ドミトリータイプのホステルを何軒か見つけてきた――1泊2,500円。
(画面をこちらに突きつける社長。その写真には、二段ベッドが並ぶ狭い部屋。海外からのバックパッカー向けだろう。)
「ほらな?予約してやろうか?」
「それ、ホステルですよ。1部屋8人です」
(さすがに言葉に詰まる。仕事終わりに、知らない人と同じ部屋で寝るなんて想像もしたくない。)
「だから何だ?他の人が泊まれるなら、お前も泊まれるだろう?」
(社長の価値観は、昭和のままだ。いくら節約と言っても、社会人が泊まるには限度がある。)
「私は残業もしなきゃいけません。8人部屋じゃ仕事もできないし、私物や会社のノートPCが盗まれたらどうするんですか?」
社長も一理あると思ったのか、今度は東京郊外の西東京や八王子にあるカプセルホテルを検索――確かに1泊7,000円。
(その場所を地図で確認すると、最寄り駅からクライアントのオフィスまで、乗り換え2回、片道1時間半。到底現実的じゃない。)
「社長、それは郊外ですよ。クライアントのところに行くのにJRで1時間かかります」
地図をしばらく眺めてから、「いや、電車がある。早く起きれば済む話だ」と。
(その一言で、全部片付けられてしまった。現実を分かっていないのか、分かろうとしないのか。苛立ちで手が震えるのを押さえ込んだ。スーツのポケットの中で爪を立て、怒りを飲み込むしかなかった。)
「それに、食事代1,000円じゃ足りません。東京ではラーメン一杯でもほぼ1,000円ですよ」
「斎藤、ひとこと言わせてもらうが、出張じゃなければ自分で飯を食うだろ?なんで出張だとタダで飯が食えると思う?どうせ食べるんだから、1,000円はサービスだ。コンビニ弁当なら十分だろ?」
(理屈は通っているようで、現実離れした発言。サラリーマンの昼食事情なんて、もう何十年も知らないのだろう。)
言い返す言葉もなかった。しかも、会社は出張に各駅停車のJRを使わせる。出張三点セット――各駅停車、ドミトリー、コンビニ弁当。
(新幹線や特急は贅沢だと叱られる。朝のラッシュで満員電車に揺られ、疲れ果てて現場に向かう。それが「会社の流儀」らしい。)
こんな出張、行きたい人が行けばいい。
(この状況を笑い話にできる日が、果たして来るのだろうか。やりきれない思いが胸に残る。)
社長の図々しい顔を見て、もうお金が戻ってこないと悟った。仕方ない。経理によれば、宿泊費7,000円、食費1,000円で計算すれば28万円以上は精算できる。それだけでももらっておかないと、もう食費すら危うい。
(手元の電卓を叩き、領収書の束を数える指先に力が入る。どれだけ削っても、生活はギリギリだ。)
だが、損を承知で申請しても、経理は一銭も払ってくれなかった。
(もはや、ため息すら出なかった。机に突っ伏して、しばらく動けなくなった。)