第3話:家族の崩壊と決意
踵を返そうとしたとき、紫苑がこちらを見た。
「お父さん?なんでここにいるの?つけてきたの?」
その目はまるで化け物を見るような嫌悪感で満ちていた。
私は表情を引き締めた。
「親として当然のことをしてるだけだ。お前のことが心配だからだよ」
声がいつもより低くなり、心臓がバクバクと音を立てる。ネクタイの結び目がやけに窮屈に感じた。ネットカフェの奥から、アニメの音がぼんやり漏れてくる。
[また始まった。悪役は親ってだけで娘を所有物扱い、高圧的だし草]
弾幕に呆れた。私は紫苑に人としての道を教えたかっただけなのに、彼らの目には支配欲の塊に見えるのか。
紫苑は制服のリボンをいじり、視線を逸らし、つま先で床を小さく蹴る。
「もう大人だし、自分で判断するから。もうお父さんのことなんか気にしないで」
私はうなずき、「好きに思えばいい」とだけ言い残し、立ち去った。
外に出ると、雨の匂いがほんのり漂い、冷たい風が頬を撫でた。
美咲と結婚して二十年。紫苑ももう十八歳だ。女の子は悪い男に騙されたり、誘拐されたりしないかとずっと心配してきた。ランドセルを背負った小さな背中を見送った朝、誕生日にケーキを囲んだ夜。そんな日々も、今では遠い幻のようだ。
厳しすぎたのは認める。でも、みんな疲れているのなら、もう手放してもいいのかもしれない。
アシスタントの直人から会議終了の連絡が入った。幸い、彼女が上司にうまく説明してプロジェクトは救われた。
スマホのバイブが虚しく響く。直人の有能さに感謝しつつ、どこか寂しさが募る。
会社に戻る気にはなれなかった。弾幕と紫苑の本音に打ちのめされ、家に帰るしかなかった。
家は冷え切り、ストーブも使われず、床には足跡やお菓子の袋が散らばっていた。玄関には濡れた傘が乱雑に立てかけられ、リビングには去年のカレンダーがめくられずに貼られている。私は苛立ちを覚えた。
美咲はといえば、ソファでテレビを見ながらスマホをいじり、エアコンをガンガンに効かせ、お菓子を食べて、何もかもどうでもいい様子だった。
リビングのカーテンも閉め切ったまま、淡いブルーのライトだけが部屋を照らしていた。
二十年の結婚生活で、私は美咲を「お姫様」にしてしまった。家事は一切せず、働きもせず、何もかも私に頼りっきりで、いつも手を差し出してくる。
最初は問題だと思わなかった。数百万円も結納金を払ったのだから、妻に逃げられたらお金が無駄になると思っていた。
地方から出てきた美咲の家族は「婿入り」だと喜び、私は義理を果たしたつもりだった。
美咲は騒ぎに気づき、顔も上げずに言った——
スマホの画面を見つめたまま、ため息まじりに「兄が新しいマンションを買いたいって。支援のために百万円渡しておいたから、あとで返してね」
私は眉をひそめた。百万円——美咲にとっては百円程度の感覚なのだろう。
ポケットの中で小銭がジャラリと音を立てる。自分が汗水流して稼いだ金が、こんなに軽く扱われるのかと虚しくなる。
私は歯を食いしばった。
「なぜ先に相談しなかった?」
美咲は猫の尻尾を踏まれたようにソファから飛び上がった。
「たかが百万円でしょ!私の兄はあなたの兄でもあるでしょ?甥っ子はもうすぐ中学生になるのよ。学区に家がなければ安心して勉強できないし、いい高校にも行けない。いい高校に行けなければ、いい大学にも行けない。高橋家唯一の男の子なのよ。そんなにケチらないでよ!」
言葉が刃のように刺さる。リビングに響いた美咲の声に、窓の外のカラスさえも飛び去った。
頭がガンガンした。
これが初めてじゃない。毎回同じ理由——兄は家の唯一の男子、娘として親孝行できないから金で埋め合わせる、と。
甥っ子は高橋家の唯一の跡取りで、紫苑には頼れないから甥に老後を託す、と。
何度も聞いた言い訳で、毎回反論する気が失せていた。
だが、さらに腹立たしいのは弾幕だ——
「商社マンなのに、家族にケチとか草」
「ママとヒロインを支えるのがパパの仕事でしょw」
彼らは簡単に言うが、私にとっては百円も百万円も汗水たらして稼いだ大切な金だ。残業し、接待で酒を飲み、体を壊してまで美咲と娘のために働いてきた。自分のスーツさえまともに買えないのに。
商社マンの同僚が「たまには自分のためにブランドスーツでも買えよ」と笑うが、私はいつもヨレヨレの安物ばかりだ。
でも、美咲が一振りするだけで、私は高級スーツ以上の金を失う。
それでも、私の努力は当然と受け止められる。
私は冷たく言った。
「持たせているサブカードは、君自身と紫苑、そして家のためのものだ。君の実家へのATMじゃない」
美咲は今にも泣きそうな顔になった。
「あなた、永遠に私を愛すって言ったでしょ?あなたのものは私のものって。結婚してまだそんなに経ってないのに、今さらこんな扱い?」
血圧が上がった。今まで何も疑問に思わなかったのは、本当に物語に洗脳されていたのかもしれない。でも今は、全てがおかしいと分かる。
ふと気づけば、指先が震えていた。これまで信じてきた「家族の幸せ」が幻だったように思えた。
私が何か言う前に、紫苑が帰宅した。何かいいことがあったような顔だったが、私を見ると一気に表情が曇った。
玄関の戸がバタンと閉まる音が、不穏な予感を連れてくる。
美咲の涙ぐむ姿を見るや否や、紫苑は私に詰め寄った。
「またママをいじめたの?お父さん、いい加減にしてよ!ママがいなかったら、あなたなんて一生独身だったくせに!」
私は怒りで思わず笑ってしまった。
紫苑が味方についたことで、美咲はすぐに得意げになり、娘を引き寄せて談笑し、私に皮肉を飛ばした。
「この家で私に優しいのは紫苑だけ。他は誰も頼りにならない。やっぱり自分の子が一番だわ」
母娘は結託し、私は完全に孤立した。
遠くからテレビの笑い声が響き、家族団らんとは程遠い冷たい空気だけがリビングに満ちていた。
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