第5話:許しの花束と、すれ違う想い
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綾香は怒っていた。
翌朝、無言で出勤した。
彼女が怒るのは珍しい。
六年前、チャリティーイベントで出会った。ステージ上での落ち着いた佇まいが印象的だった。
僕は積極的にアプローチした。
知れば知るほど、彼女の新たな一面を発見した。
母親と二人きりで暮らし、厳しい環境でも自分を大切にしていた。
楽観的で、心が広く、些細なことで幸せを感じられる人だった。
ほとんどいつも笑っていた。
人生の困難も、彼女にとっては「レベルアップ前の小さなモンスター」だった。
足をくじいても「天が休めと言ってるのよ。素直に従わなきゃ」と自分を慰める。
カバンを盗まれても「やっと新しいの買う理由ができた」と笑う。
僕は息苦しい家庭で育ち、社会的に成功しても常に緊張していた。
でも、彼女と一緒にいるうちに、肩の力を抜くことを覚えた。
花を愛でたり、雲を眺めたり、自分を受け入れることを学んだ。
休日の午後、彼女と二人で近所の商店街を散歩し、八百屋のおじさんに新しい大根のレシピを聞いたり、昔ながらの駄菓子屋でラムネを買ったり。そんな小さな楽しみが増えていった。
僕は大きな花束を持って職場に迎えに行き、同僚たちがクスクス笑っていた。
彼女は唇を結び、無言で近づいてきた。
僕は自分の頬を叩き、「俺の口が悪いせいだ、罰として殴ってくれてもいいよ」と言った。
彼女は動かない。
僕が大げさに膝をつくと、彼女は慌てて引き起こした。
彼女は笑って「今回は許してあげる」と言った。
僕は「やっぱり君は本気で怒らないと思った」とにやけた。
彼女は一瞬真剣な表情で「ダーリン、今回だけだよ。もう二度としないで」と言った。
僕は勢いよくうなずき、彼女もまた笑顔を見せた。
すぐに元通りになった。
数日後、大雪で気温が下がり、僕の咽頭炎が再発した。
綾香は嬉しそうに「有名な漢方医の診察予約が取れた」と言い、翌日薬をもらいに行くと言った。
「ちょっと遠いんだけど、車で送ってもらえる?」
僕はためらった。
瑞希の息子・蓮が雪遊びで足を捻挫し、悪天候の中、僕が送り迎えをしていた。
「忙しいならいいよ。タクシーで行くから」と彼女は軽く言った。
僕は「明日は大事な会議があるから、一日中忙しい」と答えた。
翌日——
僕は瑞希と蓮を迎えに行き、彼女の希望で個人クリニックへ向かった。
また雪が降っていた。
小さな家の前には長い列ができていた。
車を停めて降りようとしたとき、列の最後尾に綾香の姿を見つけた。
彼女は厚着をして、首をすくめて手を息で温め、頭や肩には薄く雪が積もっていた——きっと長い間並んでいたのだろう。みんなダウンコートの襟を立てて、手袋の中で指をこすり合わせていた。
瑞希は驚いて「なんで彼女がここに?」と小声で言った。
僕は眉をひそめて後ろを見た。
路地は狭く、すぐには車を回せない。
「まだ降りるな。ドアを開け閉めしたら、すぐに車がバレる。彼女が中に入るまで待とう。」
瑞希は唇を噛んで黙っていた。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「ただ息子を病院に連れてきただけなのに、どうしてこんなにコソコソしなきゃいけないんだろう……」
僕は答えなかった。ただ、暖かい車内で、寒風に震える綾香を静かに見つめていた。
彼女は昔から寒がりだった。
あと四十分は待つことになるだろう。
三十分ほど経ち、瑞希が我慢できずに言った。
「これ以上待ったら、順番を逃しちゃう。」
そう言うなり、彼女は突然ドアを開け、蓮を抱えて降りた。
バタン。
ドアが閉まった。
綾香は本能的に振り向き、こちらを見た。
彼女の視線はまず瑞希に、そしてゆっくり僕の車へと移った。
寒さで赤くなった顔に、戸惑いの色が浮かぶ。
そして、フロントガラス越しに、僕と彼女は——
静かに見つめ合った。
その瞬間、車内の暖房の風が妙にうるさく感じた。外の雪はさらに激しさを増し、フロントガラスの向こうで綾香はほんの僅かに口元を歪めた。その表情は、どこか昔の彼女とは違って見えた。
フロントガラスに雪が当たる音だけが、二人の沈黙を包んでいた。
誰にも言えない秘密が、車と雪と、冬の路地裏に閉じ込められていくようだった。
あの日の秘密は、雪に埋もれて、静かに息をひそめていた。
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