第1話:交わらない心と、始まりの嘘
兄が一度、こんなふうに尋ねてきた。「なあ、浮気した後でもさ、奥さんのことってまだ好きでいられるもんなの?」
僕はしばらく黙って考え込んだ。
なんて答えればいいんだろう。
全く何も感じないなんて、そんなはずはない。長いこと家族だったから。
でも、深く愛してるかと問われたら、それも違う。
僕は結婚の本質を分かったつもりでいた。
——あの日、あの瞬間までは。
街角で、
彼女が他の男に笑顔を向けているのを見かけた、あの日までは。
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ベランダでゆっくり煙草の煙を吐き出し、尚人の問いに答えようとしたその時、スマホが震えた。
夜の空気はまだ冬の名残で冷たく、マンションの下からはかすかに自転車のブレーキ音が響いてくる。灰皿には吸い殻が二本、静かに並んでいた。
妻の村上綾香からだった。
「どうした、綾香?」
僕は自然と柔らかい声になった。
彼女はケラケラと明るく笑いながら、「あはは、ダーリン、いつ帰ってくるの?陽斗がね、今バク転できるようになったの!早く見に来て!」
僕もつい笑ってしまう。
「分かった、すぐ帰るよ。みたらし団子でも買って帰ろうか?」
「うん、食べたい!」
「今日はさくら餅と栗きんとん、どっちがいい?」
「栗きんとん!」
「じゃあ、帰ったらお茶淹れるね」と彼女。
僕たちは笑い合いながら電話を切った。
電話のあと、僕は無意識にスマホを見つめていた。綾香の無邪気な声がまだ耳に残っていて、自然と頬がゆるむ。家の中に差し込む夕日が、畳に橙色の筋を描いていた。
振り返ると、尚人がじっと僕を見つめていた。
僕は口元をゆるめた。驚きはしなかった。
尚人は、つい最近、妻と愛人の間で泥沼の離婚劇を繰り広げ、身も心もボロボロになったばかりだ。今や二人の女性は仇同士だ。
でも僕と綾香は?
誰もが羨む仲良し夫婦。結婚四年目、倦怠期なんて遠い話で、ますます仲が深まっている。
正直、僕は彼女にずっと優しくしてきた。浮気してからは、もっと優しくなったくらいだ。
どこから見ても、彼女は誰もが羨む女性だ。
尚人が唇を尖らせて、食い下がるように言う。
「まだ答えてないだろ。」
僕は首を振り、灰皿をじっと見つめてから煙草の灰を落とし、尚人に問い返した。「例えばさ、自分の手に触れて、何か感じるか?」
「そりゃ、何も感じないだろ。」
僕は煙を吸い、遠くのまだらな雪景色を見つめながら言った。「今の僕にとって綾香は、ちょうどそんな感じだ。触れても自分の手に触れてるみたいなもの。でも、その手が傷ついたら、僕も痛い。」
尚人はまばたきをして、「それで、佐伯瑞希と付き合ってるのか?」
僕は少し視線を逸らし、真剣な声で彼を見た。「瑞希は自尊心の強い女性だ。彼女の前でそんなことは絶対に言うなよ。」