第1話:崖下の記憶喪失
娘を救うため、私は崖から身を投じた。春の新緑が眩しく、崖下にはかすかな桜の花びらが舞い、遠くで蝉の声が聞こえていた。転げ落ちていく途中、木々の隙間から光が差し、すべてがぼやけて遠ざかる。意識が闇に溶ける、その一瞬に娘の泣き声だけが耳に残った。――あれが、私のすべての始まりだった。
娘のためなら、どんな犠牲も惜しまなかった。崖の下、湿った土と草の匂いが鼻をつき、春の息吹が肌を撫でた。しかし、そのまま私は重傷を負い、記憶を失ってしまった。
都の誰もが、私が死んだと思っていた。近所の銭湯では、私の話題がしばらく絶えなかったという。町内会では、私の葬儀や家族の今後について噂が広がっていった。
私の名を知る者は、もう帰らぬ人と語った。季節が巡るごとに、私の存在は町の記憶からも薄れていった。
西園寺誠も、そう信じていた。
誠は、あの日以来どこか変わってしまったのだろう。彼の瞳からは、かつての優しさが消え、冷たい光だけが残っていた。
私が死んだとされた一年後、彼は再婚した。
葬儀の後、家には静かな時間だけが流れたと聞く。けれど、春が二度巡った頃、再び祝いの席が設けられたのだった。
新しい妻は、容姿も性格も私によく似ていた。そのことは近所でも噂になり、「あの人は前の奥様にそっくりだ」と、町内会でも話題になっていた。
二人は礼儀正しく接し合い、私の子供たちも彼女に頼るようになっていた。
子供たちは、いつしか彼女を「お母さん」と呼ぶようになった。彼女もまた、我が子のように慈しんで育ててくれていたのだろう。
私が家に戻った日、誠は涙を浮かべる新しい妻を庇い、冷たい目で私を見た。
その目は、かつての優しさを完全に失っていた。私は戸口で足を止め、静かに一礼した。
「藤音も正式に僕と結婚式を挙げた。だから、君に正妻の座を戻す理由はない。」
誠の声は、どこか他人行儀だった。
私はほっと息をついた。
胸の奥で、長い旅の終わりを感じていた。肩の力が抜け、ようやく安堵が広がった。
長い記憶喪失の末、私もすでに再婚していたのだ。
思い出せない日々を越えて、新たな絆が生まれていた。