第3話:牢獄の邂逅
「誰?」と五歳の妹が私に寄り添い、耳元で囁いた。
—小さな手が、私の袂をぎゅっと握っている。
彼は神谷恭介、この国で最も若い将軍だ。
—名を口にするだけで、周囲の空気が引き締まるような気がした。
十五歳で父に従い出征し、わずか十年で北国を統一した。
—戦場で名を上げた男。その伝説は都の端々まで広まっている。
神谷の武功は、歴史に名を刻むものだと私は思っている。
—私の胸の奥に、淡い尊敬の念が芽生えていた。
もちろん、それは私の勝手な思いだ。
—人の運命は、誰にも分からない。
なぜなら神谷は謀反の罪で、ここに半年も投獄されているからだ。
—彼の武勲など、今の都ではもう昔語りだ。
「去年の八月十二日、御所の大広間で見かけたあの将軍を覚えてる?」
—妹の顔が思い出し笑いで綻ぶ。
妹はうなずいた。「あの仙人みたいに格好いい将軍?」
—無邪気な言い回しに、他の姉妹たちも小さく笑った。
あの日、神谷は都に凱旋した。都中が出迎えにあふれ、私は幸運にもその顔を見た。
—人の波、振られる扇子、沿道に並ぶ灯籠。その中心で馬上の神谷は、誰よりも高く、まぶしかった。
背が高く、威厳があり、怒らずとも人を圧倒する。
—彼の眼差しは、ただ静かに前を見据えていた。
私は木の格子に寄りかかり、ずっと彼を見ていた。
—牢の暗がりで、彼がどうしても気になった。
明かり取り窓からの光が薄れ、周囲からいびきが聞こえる。それでも私は彼を見つめ、疲れたら体勢を変えて格子に寄りかかった。
—夜の静けさに、どこか安堵も感じていた。
夜半、夜警の太鼓が鳴ると、神谷は顔を上げた。闇の中、彼も私を見ていた。
—窓の外、遠くで「ドン」と太鼓が鳴る。彼の瞳がこちらを捉える。
私は起き上がり、膝をつき、彼に礼をした。
—かすかに頭を下げると、神谷も微かに頷いた気がした。
彼は鼻で笑い、また目を閉じた。
—その横顔に、どこか哀しみが滲む。
私は手首をつねって眠気をこらえ、彼と同じ姿勢を保った。
—寒さが膝を刺す。けれど、心は妙に静かだった。
また一日が過ぎた。静かで恐ろしい日々。
—時折、誰かがすすり泣く声が遠くに聞こえる。
二番目の姉が、いつ連れて行かれるのかと私に聞いた。
—姉の声は、幼い子のように震えていた。
「昨日、勅命がなかったなら、あと五日ある」と答えた。
—計算は常に頭の中で。冷静さを装うしかなかった。
天皇は五日に一度、朝議を開く。
—都の暮らしの中で、何よりも規則が絶対だった。
「今日はもう終わり?」と姉が明かり取り窓を指さす。私はうなずき、「じゃあ、あと四日」と答えた。
—姉の肩が小さく落ちる。
姉は怯えて隅で泣いた。
—嗚咽が牢の壁に滲みる。
私は神谷を見続けた。
—不思議なほど、彼の存在が救いだった。
夜更け、また夜警の太鼓が鳴ると、神谷は目を開け、私と視線を交わし、また鼻で笑って目を閉じた。
—その仕草が、無言の会話のように思えた。
夜明け、看守が朝食を乾いた藁の上に投げ入れた。私はそれを拾い、母に食べさせた。
—冷たく固いおにぎり。母の唇にそっと押し当てる。
母は食べようとせず、「吉原に送られるくらいなら死んだほうがまし」と言った。
—母の声に混じる絶望。それでも私は母の手を包み込んだ。母の手の温もりを、必死に自分の指に刻みつけた。
「あと三日」と私は言った。「逃げ道がなければ、三日後に死を選びましょう」
—決意の言葉に、母は静かに頷いた。
母はそれを聞き、固いおにぎりをゆっくり噛みしめた。
—その咀嚼音がやけに大きく聞こえた。
その日は旧暦二月二日。夜には町の灯籠のざわめきがかすかに聞こえた。
—かすかな明かりが窓から漏れる。春節の余韻が街に残っている。
去年の二月二日、私は何をしていた?
—遠い日の記憶が蘇る。
たしか、皇后と一緒に御所で灯籠を見ていた。皇太子妃の蓮灯が私の裾に落ちて、衣が焦げた。
—着物の裾に小さな穴が空き、皆で慌てて水をかけて笑った。
皇后は皇太子妃を叱り、皇太子は妃を連れて私に謝った。私は笑って「大丈夫です」と答えた。
—その時の華やかな光景が、今は夢のように思える。
気づけばまた夜警の太鼓。私はいつものように格子越しに神谷に礼をした。
—どこかで春の気配が流れ込む。
彼はじっと私を見つめ、私も見返した。
—互いに、言葉を交わさずに理解し合う瞬間。
雪が空に満ちている。私は彼の目を通して、遥か北国の寒さを感じた。
—白い息が牢の中に広がる。冬の匂い。
「将軍」私は意を決して声を落とした。「民はあなたを必要としています」
—声を潜めて、心の底からの言葉を投げかけた。
彼の表情は見えなかったが、暗く澄んだ目に少し興味の色が浮かんだ。
—ほんのわずかに、彼の眉が動いた。
しばらくして、彼は笑った。
「花村慎之のような奸臣が、こんな令嬢を育てるとはな」
—皮肉混じりの声に、私はわずかに苦笑した。
彼は体勢を変え、格子に寄りかかり、横目で私を見た。「三日も私を見ていたが、民が私を必要としているのか、それともお前自身が必要としているのか?」
—挑発的な視線が、私の心を試す。
「違いはありません。私も民の一人です」と答えた。
—静かに、まっすぐに返す。
三日間彼を見続けていたのは、この一言のためだった。
—それだけが、私の小さな希望だった。
もし逃げるなら、私たちは女と子供九人。逃げ切れるとは限らないし、逃げても隠れる場所はない。
—現実は厳しい。都には味方もいない。
だが、武芸に秀で、北国を後ろ盾に持つ神谷がいれば?
—もしかしたら、道が開けるかもしれない。
私は生きたい。
—その想いだけは、譲れなかった。
だが神谷は動じず、鎖で私を指し示しただけだった。
—その仕草には、どこか哀しみも感じられる。
「将軍は出たいのですか?もしそうなら、鎖を外す方法があります」と私は言った。
—提案する言葉が、牢の冷たい空気に溶けていく。
彼は無表情に、「出たくない」と答えた。
—絶望が胸を刺した。
この決断が、後にどんな運命を呼ぶのか、まだ誰も知らなかった。