第1話:正月の火花と賭けの始まり
お正月の親族の集まりで、みんなでトランプをしていたとき、従兄の直樹が突然「つまんねーな、もっとでかく賭けようぜ」と言い出した。
窓の外では、凧が冬の青空に揺れ、こたつの中はみかんの甘い香りで満ちていた。障子越しに差し込む柔らかな日差しと、テレビから流れる正月特番のざわめき。その静けさを切り裂くように、直樹の声が部屋に響いた。
直樹はBMWの車の鍵をこたつの上に、音を立てて叩きつける。「俺と張り合えるやつ、いるか?」と挑発する。
鍵が畳の上でカランと響き、親戚たちの視線が一斉に集まった。空気がにわかに重たくなり、正月のぬくもりが一歩遠のく。
最近BMWを買ったばかりの直樹が、こうして自慢したいだけだと皆気づいていた。
彼のSNSには納車写真が何度も載り、親戚たちはもうその話を何度も聞かされていた。
「遊びなんだから、そんな無茶なこと無理だよ」と手を振りながら、若くしてBMWに乗る直樹を持ち上げる親戚たち。
「すごいねぇ、都会の人はやっぱり違うわ」と伯母が気を利かせて笑い、場の雰囲気を和ませようとするが、直樹の顔はますます得意げになる。
俺は迷った。手元にはキングが三枚ある。こたつの縁を撫でながら、心臓が高鳴り、指先にじっと汗がにじむ。みかんの皮を剥く手も震え、親戚の子どもたちがトランプの絵札を指ではじいて遊ぶ音が遠く聞こえた。
直樹がカードを切ろうとした瞬間、俺はトヨタの車の鍵を静かにこたつの上に置き、「俺も乗るよ」と低く言った。
部屋の蛍光灯の光が、二つの鍵を一瞬だけ照らし出す。
みんなの視線が一気に俺へ。こたつの温もりがすうっと遠ざかり、誰も口を開かない。障子の外で凧が風に揺れる音だけが響いていた。
みんな信じられないという目で俺を見る。直樹も驚いて目を見開いた。
子どもたちまでゲームの手を止め、こちらを凝視する。
家族の温かさは消え、テーブルの上に並ぶ車の鍵が、正月の団らんを凍らせた。
さっきまでの笑い声が幻のように消え、ストーブの静かな音が遠くでくぐもって聞こえる。
だが、後悔はなかった。先にBMWの鍵を出したのは直樹だ。
畳の上の鍵を見つめ、胸の奥で不思議な静けさを感じていた。
身内相手にここまで冷たくなれるなら、俺ももう遠慮はしない。
「親しき仲にも礼儀あり」なんて言うが、直樹のやり方にはもう我慢できなかった。
直樹は鼻で笑い、「おい、いくら持ってんだよ?俺をビビらせるつもりか?BMWだぞ、こっちは。まず金揃えてから言えよ、トヨタなんかで張り合うなよ」と軽口を叩く。
その口ぶりは都会の若者特有の軽さで、親戚の中でこんな言葉を投げるのは彼だけだった。
俺は冷たく見返した。直樹とのカードは昔から苦手だ。
心の中でため息をつきつつ、表情には出さない。直樹はいつもこうやって場をかき乱す。
せっかくのお正月も、彼はすぐお金を持ち出して大勝負にする。
正月といえば家族団らん、おせちや雑煮、こたつを囲んでトランプや花札――それを壊すのが直樹のお決まりだ。
カードをやる者なら分かる。金がなければ、金持ちの前ではプライドもなく、ただ踏みつけられる。
「貧乏人は賭けごとをするな」と言わんばかり。こたつの温もりも遠のいて、みんな苦い顔。
俺たちが100円、200円賭けていると、直樹は5万円をポンと出す。
小銭を並べる俺たちの前で札束を広げ、「これでどうだ?」とニヤつく直樹。皆、苦笑いするしかない。
「家族なんだからそんな大きく賭けるな」と止めても、「5万なんて大したことないだろ?」と軽く返してくる。
「年末ジャンボの方が夢があるだろ」とズレた冗談を言う直樹に、伯母は「やれやれ」とため息まじりに湯呑みを置いた。
結局、俺たちが貧乏なのを分かっていて、挑発しているだけだ。
田舎ではこういう空気が一番堪える。プライドを傷つけられても、言い返せないもどかしさだけが残る。
彼が座るのは、貧乏な親戚のプライドをもてあそぶため。
「勝負したいだけならカジノにでも行け」と心の中でつぶやいた。
トヨタがBMWにかなわないのは分かっていた。だから俺は婚約者の美咲を呼んだ。
こたつの山盛りのみかんの影から、LINEでそっと合図を送ると、美咲が静かに近づいてきた。
結婚を控えた美咲は、俺が贈った婚約指輪とネックレス、ブレスレット――日本の伝統的な「三つの金」を身につけていた。
それぞれが華奢で上品。親族の女性たちも「あら、素敵ね」と褒めていた。
「ネックレスとブレスレットをテーブルに出して」と頼むと、美咲は黙って外し、カードも見ずにそっとテーブルへ置いた。
美咲は一度だけ俺の目をじっと見て、小さく息を吐き、指輪に触れて迷いながらも、静かに微笑んだ。その仕草に、胸が熱くなった。
その瞬間、「こんな妻がいれば、男として何もいらない」と思った。
美咲の静かな覚悟が、不思議な勇気をくれた。
俺は真剣な顔で直樹に言う。「これで十分だろ。さあ、カードを見せるか?」
声が震えそうになるのを堪えた。
直樹の表情が変わった。歯を食いしばり、俺がここまでやるとは思わなかったのだろう。「いいか、俺はBMWを失っても平気だが、お前が全部失ったら、どうやって5年暮らす?」と皮肉を投げる。
「5年なんてあっという間だろ」とは言えず、静かに見返した。
「大丈夫だよ。何とかなるさ。それに、さっき晩ご飯のとき、お前と奥さんが俺は度胸がないって言ってただろ?」と返すと、直樹の顔が曇った。
正月の食卓で交わした何気ない会話が、今は重く響く。
俺はただ、食事中に収入の話題で「お前は臆病だ」「俺みたいにリスクを取れない」と馬鹿にされたのが悔しかった。
美咲も苦笑しながら、そっと俺の手に触れてくれたのを思い出す。
親父がタバコを差し出し、火をつけてやったとき、直樹は風よけもせずに受け取った。田舎ではこれは無礼のしるし。
座敷の端にいた祖父が、小さくため息混じりに湯呑みを置いたのを見逃さなかった。
都会の人や女性には分かりづらいが、田舎ではこうした所作が人柄を示す。
親族も言葉にはせずとも、どこか眉をひそめていた。