第5話:契約の朱と蒼真の胸騒ぎ
伊達蒼真がテントに戻ると、側近が報告した。紅子のテントの外で聞き耳を立てていた密偵が去ったと。
将校用のテントの中、淡い灯りが紙障子に揺れていた。側近の小声が静かな夜気に消えていく。
その者は都の役人たちと共にここまで来て、紅子に執着していた。明らかに姫側の人間だった。
その噂は、すでに軍営の一部でささやかれていた。女たちもひそかに恐れていた。
今の天皇には病弱な皇太子が一人だけ。お姫様は最愛の末娘で、幼い頃から溺愛されてきた。
その美しさと気高さは、都中に知られている。誰もが一度は憧れた存在だった。
天皇は、王家の財産の半分を姫の嫁入り道具にするとまで言っていた。
嫁入り道具の豪華さは、噂になり、女たちの妄想の的だった。
彼女を娶ることは、莫大な富を手に入れるに等しい。
その話は、軍営の隅々まで広がっていた。
もし病弱な皇太子が死ねば、女帝が即位する前例ができるかもしれない。
女が天下を治めることなどあり得ない。実権は、彼女が頼る男が握ることになる。
その構図は、昔から何も変わらなかった。
当時、都の貴公子たちは皆紅子を愛したが、誰もが本当に娶りたかったのはお姫様だった。
私も、その事実には気づいていた。
伊達蒼真も若く傲慢だった。彼は紅子の才気、美貌、清らかさを愛した。
だが、紅家が没落してから、彼は徐々に気づいた——両方手に入れればいいのだと。
その傲慢さが、彼の本質だったのかもしれない。
紅子は一人きりで、正妻の地位を与えずとも手に入れられる。
だから半年前、都で報告を終えたとき、彼はわざと英雄救美の芝居を打った。
軍議の席での彼の姿が、今も目に焼き付いている。
姫が寺への道で賊に襲われたとき、彼が救い出し、姫は一目で彼に心を奪われた。
都ではすぐに噂が広まり、姫は彼のために夜毎に涙を流したという。
事は順調に進んだ。
姫は彼と結婚を望み、彼は婿に選ばれた。
紅子はおとなしく従った。
私はただ、流されるままに生きるしかなかった。
だが姫は幼い頃からわがままで、他人に寛容ではなかった。
姫の機嫌を損ねた者は、誰一人として無事では済まなかった。
彼女はすでに紅子の存在を知り、憎んでいたが、軍営の遊女ごときと争う価値もないと放っておいた。
その冷たさが、私には悲しかった。
もし伊達蒼真が紅子をただの遊び相手としか扱わなければ、姫は黙っていなかっただろう。
それに、紅子はまだ気位が高すぎた。都に連れて帰れば、必ず姫を怒らせる。
ここで少し謙虚さを学ばせるのもいい。
それに、都での立場を固める時間も稼げる。姫と結婚して彼女の機嫌を取った後、紅子を迎えに行けばいい。
彼は自分の計画に一分の狂いもないと信じていた。
城外の洋館はすでに用意し、紅家の旧宅のように整えた。
桜の木を庭に植え、琴を置く部屋も作らせた。
紅子にはまだ内緒にしている。驚かせたかったのだ。
言った通り、姫と結婚しても、紅子への気持ちは変わらない。
あの洋館が、二人の家になる。
紅子がその家を見たときの反応を思い浮かべ、伊達蒼真は思わず口元を緩めた。
ただ……
今夜の紅子の反応は、少し妙だった。
彼女の瞳に、一瞬、遠い決意の影が差していた。
伊達蒼真は理由もなく苛立ちを覚えた。
「誰か来い。」
彼の声が冷たく響いた。
側近を呼び、命じた。
「俺が去った後、彼女を守れ。苦役所送りは形だけだ。誰かが彼女を傷つけたら、首を持ってこい。」
「はっ。」
側近の声が低く響く。
「傷は……」
伊達蒼真は困ったように首を振った。
「いや、芝居なら徹底しろ。少し苦労させるのも彼女のためだ。」
その言葉に、わずかな迷いが混じっていた。
すべて手配し終えると、伊達蒼真は急いで公務に戻った。
肩にかかる外套を整え、足早に廊下を歩いた。
誰かが大きな赤い帳面を運んできた。
「将校、これは自衛隊員と軍営の遊女の婚姻契約書です。将校の承認が必要です。」
帳面の重みが、彼の手にずしりと伝わった。朱肉の匂いがほのかに漂い、紙の質感が手に残る。
伊達蒼真はそれを一瞥し、内心で嘲笑した。
あんな女たちと本当に結婚する者がいるとは、呆れたものだ。
こんなものに印を押すのさえ、気が滅入る。
伊達蒼真は私印を無造作に放った。
「お前が押せ。」
朱肉の香りが、夜の静けさに消えていった。
その夜、伊達蒼真の胸には、紅子を失うかもしれないという焦燥が、静かに広がっていった。
続きはモバイルアプリでお読みください。
進捗は自動同期 · 無料で読書 · オフライン対応