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裏切りの婚約者 / 第1話:終戦の夜に、紅子は決断する
裏切りの婚約者

裏切りの婚約者

著者: 鎌田 渉


第1話:終戦の夜に、紅子は決断する

大戦が終わると、軍営の遊女たちは売春宿送りを逃れようと、必死に自衛隊員たちに取り入ろうとしていた。女たちの目は、男たちの動き一つ一つを追っていた。誰かの袖をそっと引く指先に、爪が食い込んでいた。焦燥の気配がテント全体を覆い、ささやき声が絶え間なく続いていた。

薄暮の光が沈み、テントの隅でひそやかな話し声が交わされる。虫の声が遠くで響き、湿った夜風がテントの隙間から忍び込む。軍営の空気には、敗戦の安堵と、これからの不安が入り混じっていた。どこか遠くで太鼓の音が響き、焚き火の匂いが漂ってくる。売春宿送りという現実を前に、女たちは目を潤ませながらも、笑顔を繕い、軍服姿の男たちに慣れない色気を振りまいている。和紙のように薄い仕切りの向こうからは、こっそりと誰かが爪を噛む音すら聞こえた。和紙の隙間から漏れる灯りが、女たちの顔に揺れる影を落としていた。

あの寡黙で浅黒い分隊長が私を探しに来たとき、軍営に残っていたのは、私と病に倒れた年老いた遊女の二人だけだった。

夜風に乗って、分隊長の足音が近づく気配がした。私は古びた布団の上で背を丸め、無言のまま息を潜めた。かすかな咳払いとともに、病んだ遊女の痩せ細った手が私の袖口を掴む。その手の温度は、かつて彼女が華やかだった頃の温もりを微かに残していた。

彼女は私を嘲笑った。

「紅子(くれこ)、もし誰かがあんたを連れて行ってくれるって言うなら、素直について行きなよ。まだ誰を待ってるのさ? 栄光に満ちた若き将校の伊達(だて)様? もうすぐお姫様と結婚するってのに?」

彼女の声は枯れていて、どこか寂しげだった。その言葉には、年季の入った女だけが持つ哀れみと皮肉が交じっている。私は思わず視線を伏せ、膝の上で握りしめた手に力が入った。

言葉が喉の奥で絡まり、何も言えずにいたが、ようやく絞り出すように呟いた。「考えさせて」と答えた。

言葉を呑み込むような沈黙が部屋に落ちる。私は襖越しに滲む月明かりを見つめ、胸の奥で小さな溜め息をついた。

その夜、伊達蒼真(だて・そうま)は私をベッドに押し倒した。

夜半、灯りの消えた簡素なテントの中で、彼の強い手が私を捕まえた。湿った夜の空気が肌を撫で、敷布の冷たさが背中に染みる。外では虫の声が途切れ途切れに聞こえた。心臓が高鳴り、息が詰まるような緊張が走る。身体が強張り、幼い頃の彼との思い出が一瞬よぎる。

彼は荒々しく私の顎をつかみ、無理やり顔を上げさせた。

その掌は固く、戦場で鍛えられた男の重みがあった。顎をつかまれ、無理やり目を合わせさせられると、視線の奥に冷たい光が宿っていた。

「俺はお姫様と結婚する。嫉妬してるのか?」

彼は鼻で笑った。

「相変わらず気が強いな。」

不敵な微笑みを浮かべたその顔に、私は幼い日の彼の面影を探した。だが、すでにそれは過去の幻でしかなかった。

「俺が姫と結婚しても、俺たちの関係は何も変わらない。城外に洋館を買った。これからはそこで俺を待っていろ。」

彼の言葉には、既成事実を淡々と告げる冷たさがあった。洋館という響きが、どこか空虚に感じられる。私は唇を噛み、返事をしなかった。

最初から最後まで、昼間誰かが私を訪ねてきたことについて、彼は一言も聞かなかった。

まるで、私が他の誰かと行くはずがないと信じているかのように。

でも彼は知らなかった。私はすでに西園遥(さいおん・はるか)という名の分隊長に同意していたことを。

私の胸の奥にある決意の灯火を、彼は知るよしもなかった。畳の上、遠くから夜虫の声が聞こえる。私は静かに目を閉じ、自分の選んだ道を確かめた。

彼が姫と結婚するその日、私もまた嫁ぐのだ。

夜明け前、紅子はまだ眠れずにいた――自分の選んだ道の先に、何が待つのかも知らずに。

この章はここまで

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