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裏切りの夜に抱かれて / 第1話:道切りの記憶
裏切りの夜に抱かれて

裏切りの夜に抱かれて

著者: 相川 すず


第1話:道切りの記憶

大型トラックを運転していた頃、私はよく“道切り”と呼ばれる先導役を任されていた。『今日の道切り、頼むわ』と年配の先輩が缶コーヒーを差し出す。夜明け前のサービスエリアで、エンジンの余韻と共に背中を押される。「厄を祓う」という意味の業界用語で、私が先頭を切って走ることで、後続のトラックたちは安心してついてくる。そして、仕事終わりにはご祝儀のポチ袋が手渡されるのが常だった。

その時のエンジンの重低音や、夜明け前の国道に立ちこめる霧、フロントガラスに浮かぶ水滴の粒立ちまで、いまだに鮮やかに思い出せる。ご祝儀のポチ袋を重ねてポケットにしまうと、どこかお祭りの日のような高揚感が胸に残ったものだ。ポケットの中で紙の感触を指先で確かめながら、子どもの頃に縁日の屋台で当たりくじを引いた時のような、根拠のない自信が湧いてきた。

よく「道切りをしていて、何か変なものを見たことはあるか?」と聞かれる。私は少し考えてから「大したことはないよ。夜中に車を止める人がいたり、詐欺師が道路の真ん中で轢かれたふりをしていたり、時には高速道路沿いに全く同じ町がいくつも現れたり…」と答える。

答えながら、冗談まじりに目を細め、たいていの相手は「また大げさな」と笑ってくれる。だが、その中には自分でも説明できない“境界”の気配が、ずっと心の奥に残っていた。

「修羅の顔、菩薩の心——お前はこの世で陰陽飯を食う運命だ。」

私が十二歳のとき、用水路に落ちた狂った老人を助けた。彼は私にそう言った。そして、十一節の桜の木でできた「魂打ちの鞭」を手渡してくれた。

老人は泥にまみれたまま、まるで何かを見透かすような目で私を見ていた。桜の木の鞭は、艶やかな手触りで、いま思えばただの道具には見えなかった。信州の冷たい春風が、その時だけ妙に温かったのを覚えている。

私は信じなかった。十八歳で地元・信濃町を出て大型トラックの運転手となり、三十代には自分の運送会社と家族を持った。人生はほぼ完璧に思えた。

深夜のサービスエリアで仲間とカップ麺を啜りながら、少年時代の不思議な記憶を思い返すことはなかった。あの鞭も、いつしかタンスの奥にしまい込んでいた。

だが、あっという間に両親が亡くなり、妻は病で世を去り、弟には裏切られた。莫大な借金だけが残り、私のそばには息子と娘だけが残った。

親戚も誰も頼れず、冷たい雨の音が窓を叩く夜、私は布団の中で子どもたちの寝息を聞きながら、どうしたらよいのか途方に暮れた。

どうしようもなくなり、私は再びあの魂打ちの鞭をタンスの奥底から見つけ出した。

埃まみれの箱を開けると、桜の木の鞭は年月を経ても不思議な輝きを放っていた。胸の奥で、なにか懐かしい鼓動が蘇るようだった。

——あの夜の“境界”は、今もどこかで息づいている気がした。

この章はここまで

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