第2話:涙と告白、揺れる夫婦の絆
【2】
私は苦笑いを浮かべた。張りつめていた心の糸が、ふっと緩んだ気がした。病院の蛍光灯が妙に眩しく、世界が遠のいていく気がした。
親密な関係があったかどうか、他人には分からなくても、私には絶対に分かる。
体外受精を始めてから、山本瑞希(やまもと みずき)は特に慎重になり、婦人科の医師が性交を厳禁していることを、繰り返し私に念押ししていた。
「先生が言ってたよ。薬を使っている間にうっかり自然妊娠したら、ホルモンのバランスが崩れて、妊娠の維持がとても難しくなるんだって。」
私は彼女の鼻を軽くつついて冗談めかした。「本当に先生の言うことをよく聞くんだね?」
彼女は私の含みのある言い方にすぐ気づき、甘えるように私の腕に寄りかかって拗ねた。「もちろん。でも、一番聞くのはあなたの言葉だよ、先生。」
排卵誘発が始まってからは、彼女はさらに慎重になった。小さな歩幅で歩き、お腹をかばうようにしていた。エコバッグを肩にかけ、階段の上り下りさえ避けていた。お茶を入れてくれるときも、そっと湯呑みを差し出す手つきがどこかぎこちなかった。
逆に私は「普段通りに生活して大丈夫だよ、何も起きないさ」と彼女を安心させていた。そうやって明るく振る舞ってほしかった。
なのに今、まさに採卵前夜に、彼女が健康を顧みず、誰かと激しい関係を持ったと言われている。
到底信じられなかった。
採卵は失敗し、手術は予定より早く終わった。時計を見ると、まだ昼前だった。
瑞希がベッドに乗せられて運ばれてきた。看護師が静かにカーテンを引き、私はベッドサイドの椅子に腰掛けた。
麻酔がまだ効いていて、彼女は意識がなかった。
化粧をしていなくて、麻酔のせいで少し顔色は悪かったが、その美しさは隠しきれなかった。頬には涙の跡のようなものが残り、私はそっとハンカチで拭いてやった。
私は彼女の顔をじっと見つめ、しばし呆然とした。なぜこんなことになったのか、考えても考えても答えが出なかった。
瑞希とはお見合いで知り合った。
約束は17時半だったが、その日、私の患者が術後急性腸閉塞を起こし、二度目の緊急手術とICUへの転送が必要になった。患者の容態が安定した後、私は急いでレストランへ向かった。
これまでなら、こういう時はお見合い相手が怒って帰ってしまうことが多かった。
だがその日、瑞希は文句ひとつ言わず、静かにテーブルに座っていた。しかも、にこやかに私にレモン水を注いでくれた。白いブラウスの袖口には小さな刺繍があった。
その理解深さに、私は心が温かくなった。仕事柄、急な呼び出しが多いことも、黙って受け入れてくれそうな人だと思った。
しかも、彼女はまさに私の理想のタイプだった。黒のタイトスカートが曲線を引き立て、バラ色の唇は艶やかで、しかも美術教師——美しくてロマンチック。
まさに夢に描いたパートナーだった。彼女が描く油絵のように、静かで深い魅力を感じた。
一目惚れと言ってもいい。
三ヶ月の交際を経て結婚した。子どもについては自然に任せていたが、結婚から一年経っても妊娠しなかった。
医療従事者として、どちらかに問題があるのだろうと敏感に察した。
どちらに原因があるのかは、検査しなければ分からない。
最初、彼女は検査を渋った。「まだ結婚して一年だし、もう少し様子を見たら?」
私は反対した。「医学的には、一年間避妊せずに妊娠しなければ不妊症とみなすんだ。」
「問題があれば治療すればいいし、なければ安心できる。精神的に落ち着いた方が妊娠もしやすいんだよ。」と、私は彼女にプレッシャーをかけないようにした。
検査の時、彼女はついに打ち明けてくれた。大学時代の初恋の時、予期せぬ妊娠で子宮外妊娠となり、卵管を一本切除したという。
「手術の時、先生が言ってた。卵管が一本でも、自然妊娠できる人もいるって。
私が悪かった。希望的観測にすがって、あなたにも隠してしまって……
早く言わなくてごめんね……でも、あなたが好きすぎて、受け入れてもらえないんじゃないかと怖くて……あなたがいないと生きていけないの……」
その日、彼女が涙を浮かべて告白した姿は、胸が締め付けられるほど切なかった。部屋の蛍光灯がやけに眩しく、彼女の肩が小さく震えていた。彼女が言葉を詰まらせるたび、部屋の空気が重くなり、私は手を握る力を少し強めた。
その時、男としての包容力が湧き上がり、私は彼女を許した。彼女の手を取り、「もう大丈夫だよ」と優しく抱きしめた。
大人なんだから、誰にでも過去はある。
それに、彼女はその後、元恋人とは一切連絡を取っていないと誓った。
「削除しないのは未練があるからじゃなくて、もう何とも思ってないからだよ。
もし気になるなら、すぐにでも削除するよ。全然問題ないから。」
私は気にしないと手を振った。
実際、私も自分の初恋の連絡先は消していない。
そこをしつこく言えば、自分が小さい男に見えてしまう。
その後さらに一年頑張ったが、やはり妊娠しなかった。最終的には、瑞希自身が体外受精を提案した。
私はまだ迷っていた。「残った卵管が通っているか、造影検査してみたらどう?」
私はずっと自然な妊娠を信じていたからだ。
だが体外受精は、いわば人工的な選択だ。
瑞希は決意していた。「どうせいつかは子どもが欲しいんだし、年齢が上がるほど難しくなる。今やっちゃった方がいいよ。」
彼女の頑固な顔を見て、これから彼女が受けるであろう痛みを思うと、私は心が痛んだ。「怖くないの?」
彼女は私に寄り添ってきた。「もちろん怖いよ。すごく痛いって聞いてる。でも、あなたの子どもを思うと、それほど怖くない。
あなたのことが好きすぎて、あなたなしじゃ生きていけないから、子どもを作ってあなたを繋ぎ止めたいの……
私、本の中の強くて自立した女性みたいにはなれないよ……
強い女になりたいわけじゃない。ただ、甘やかされる妻でいたい。他人がどう思おうと関係ない。」
そう言って、彼女は私の首に腕を回し、頬にキスをしてきた。彼女の温もりが胸に沁みた。
私は思わず心がとろけ、すぐにキャッシュカードを渡してしまった。彼女のためなら、どんな苦労も惜しくないと思った。
妻が苦労しているのだから、夫として全てを負担するのは当然だというのが私の考えだった。
おそらく彼女の前向きな姿勢のおかげだろう。
他の女性たちはIVFでやつれていくのに、瑞希は毎日おしゃれを欠かさず、歩き方だけが少し慎重になっただけで、普段と変わらなかった。髪もきちんとまとめ、さりげないリップを忘れない。卵焼きや梅干し、彩り野菜が詰まったお弁当を、毎朝欠かさず用意してくれた。
私は彼女の明るさに本当に感心していた。
今朝の手術を思い出す——昨夜、私は同僚と夜勤を交代して、彼女と一緒に過ごそうと思っていた。
だが彼女は、「特別にシフトを変えてまで一緒にいられると、かえってプレッシャーで眠れなくなって、採卵に影響する」と言った。
まさか、こんな大事な時に、彼女が他の男と夜を過ごすとは思いもしなかった。
今思えば、どんな異変にも理由がある。彼女の様子は、IVFで苦しむ女性のそれとは違っていた。少し無理をしてでも明るく見せていたのかもしれない。
そう考えると、私は今にも感情を抑えきれず、彼女を置いてその場を去り、全てを一人で背負わせたくなった。怒りや悲しみ、戸惑いが心の奥で渦巻いていた。
妻として、彼女は私にとって許されないことをした。簡単に離婚して彼女を楽にさせるわけにはいかない。
私は彼女のスマートフォンを手に取り、指紋認証でロックを解除し、LINEの履歴を調べた。削除された形跡もなく、不審なやり取りは見当たらなかった。
初恋の相手とのチャットも確認した。
先月、彼が「誕生日おめでとう」とメッセージを送っていたが、彼女は返信していなかった。
彼のタイムラインを見ても、家族三人で出かけた写真が投稿されており、彼女はコメントも「いいね」もしていない。
男の勘として、昨夜彼女と過ごした相手は初恋の人ではないはずだ。
考えれば考えるほど頭が痛い。一体誰なのか——
窓の外では、梅雨の雨がアスファルトを叩いている。私は窓の外の梅雨空を見つめ、ぼんやりと「カラン」と自販機の缶コーヒーの落ちる音を思い出した。少し冷えた空気のなかで、瑞希の寝息が静かに響いていた。この静けさの裏で、何かが決定的に変わってしまった気がしてならなかった。