第1話:トランクの中の悪夢
私は車のトランクの中に隠れ、シャンパンのボトルを握りしめて、彼女の誕生日をサプライズで祝う準備をしていた。
シャンパンの瓶は、彼女の好きな銘柄だった。手に汗がじっとり滲み、車内の暗がりで心臓の鼓動がやけに大きく感じられる。トランクの中はむわっとした湿気がこもり、レザーシートの独特な匂いが鼻をつく。誕生日の朝、私は早起きして、近所の和菓子屋で桜餅も買ってきた。そのピンク色の包みも、彼女への思いを詰めて、隅にそっと置いてある。トランクの隙間から差し込むわずかな光に、胸が高鳴っていた。
彼女が近づいてくると、ふたりの声が聞こえてきた。「まさか……?」と胸がざわつき、手が小刻みに震えた。私はスモークガラス越しに様子をうかがった。彼女はガラスに押し付けられ、ふたりとも息を荒くしていた。
思わず息をひそめて耳を澄ます。彼女のいつもより高い声、男の低くざらついた笑い。トランクの狭さと緊張で、脚がしびれ始めていた。こんな場面に遭遇するなんて、想像もしていなかった。
本当は車の中じゃなくて、車の下に隠れるべきだった。そうすれば、彼らの激しい行為を目の当たりにすることもなかっただろう。
頭の中で「しまった」と自嘲する。駐車場の端で、猫のようにタイヤの陰に隠れていたら、きっと何も見ずに済んだ。だけど、せっかく準備したサプライズが、今や悪夢の現場になってしまった。
だが、一番最悪だったのは、今日プロポーズをしようと計画していたことだ。みんなに幸せを共有してもらいたくて、私はLINEライブ配信まで始めていた。
配信の告知を、親や親戚、古くからの友人のグループLINEにも送っていた。みんながどんな顔で待っているかと思うと、胃が締め付けられるようだった。プロポーズ用の台詞まで、数日前から何度も鏡の前で練習していたのに。
今まさに、両親や親戚、友人たちがオンラインでその様子を見ている……。
実家の父母は畳の居間でスマホを手に、親戚の叔母たちも茶の間でケーキを用意しているだろう。親友のタカシからは「頑張れよ!」とスタンプが届いていた。
彼女と目が合ったが、私は濃いスモークフィルムを貼っていたので、彼女には私が見えなかった。
トランクの中、私は息を止めて身を縮めた。外からは見えないはずだが、なぜか見透かされているようで、額に冷や汗がにじむ。
彼女は小悪魔のように「車の中に行こう」と提案した。私は彼女が本当に車に入ってくるのではと恐怖を感じた。なぜなら、車内のカメラからライブ配信が流れているからだ。もし彼女が車に乗り込んできたら、すべてがカメラに映ってしまい、私は完全に恥をかくことになる。
背中に悪寒が走った。思わずトランクの隅に身体を押しつける。これが日本のドラマなら「やめてくれ」と心の中で叫んでいる展開だ。
私は慌てて彼女に電話した。彼女はスマホを見て、私からだと気づくと、すぐに電話に出て「今、会議中だから話せない」と言った。
彼女の冷静な声。電話越しの小さな機械音に、自分の存在が否定されたような気分だった。私は声も出せず、ただ通話音に耳を傾けていた。
私が一言も発する前に、彼女は電話を切った。しかも、彼女がスマホの電源を切るのも見えた。
画面が真っ暗になるまで、私は手の震えを抑えられなかった。自分の電話がこんなにも無力に思えたのは初めてだ。