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犬泥棒と裏切りの夜 / 第1話:深夜の犬泥棒
犬泥棒と裏切りの夜

犬泥棒と裏切りの夜

著者: 相田 志穂


第1話:深夜の犬泥棒

東京の社交界で名を馳せる小さなお嬢様が、深夜にこっそり私の家にやってきて、愛犬を連れて行った。犬を手に入れた直後、彼女はTwitterに「やっとうちの子を取り戻した!」と投稿していた。

その時の写真は、シャンデリアの下、ふかふかのペルシャ絨毯の上で彼女と巨大なアラスカン・マラミュートが寄り添っている。犬の毛は艶やかで、彼女のワンピースの裾には小さなブランドロゴがきらり。写真の隅には、東京タワーの夜景がぼんやり映っていた。

その30分後、人気若手俳優が自宅で自撮りを投稿する。「うう、僕の犬がママに連れていかれちゃった。今はひとりぼっちだよ。」

彼の写真には、シックなマンションの一室と、ぽつんと置かれた犬用ベッド。彼の目元には涙マークのスタンプ。部屋の静けさが寂しさを際立たせていた。

SNSのトレンドワードは大爆発。二人をお似合いカップルだと盛り上がり、「ドラマのワンシーンみたい!」とのコメントが殺到。芸能ニュースでも話題になりそうな勢いだった。

収録を終えてマンションに戻った私は、静まり返った空っぽの部屋を見渡す。

……マジか。俺の犬はどこだ?胸がざわつく。まさか、そんなはずはないだろう。

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深夜、バラエティ番組の収録を終えて、重い足取りで家に帰った。

外は静まり返り、エントランスのガラスに映る自分の顔は疲れ切っている。街灯の下、湿った夜風がスーツの裾を優しく揺らした。

普段なら、オートロックの暗証番号を入力する「ピッ」という音を聞きつけて、うちの犬は玄関マットの上で大騒ぎしているはず。マンションの廊下には夜の静けさと、どこか懐かしいカーペットの匂いが漂っていた。

今夜は――何の反応もない。鍵を回す手が少しだけ震える。ドアの向こうから聞こえてくるはずの爪の音や「ワン!」という声がないことに、じわじわと不安が広がる。帰宅後の温かい歓迎が、どれほど日々の癒しになっていたのかを痛感する。

ドアを開けて、思わず名前を呼んだ。

「コマツ、どこだ?パパが帰ってきたぞ。」

マンションの廊下に私の声が反響し、夜の静けさに溶けていく。誰もいないのに、小さく「ただいま」と呟いてしまった。

何度呼んでも返事はなく、リビングもキッチンも、バスルームの隅まで探したが、コマツの姿はどこにもなかった。ソファの上のブランケットも、ぺちゃんこのまま。

窓が開いていて外に出てしまったのでは、とベランダや玄関の周りも何度も見直したが、手がかりはなし。

心配と焦りが入り混じる中、防犯カメラの映像を確認するため、マンションのモニターを巻き戻す。指先が震えた。

画面には、東京サークルの小さなお嬢様・村上紗良が現れる。彼女は周囲をキョロキョロと見渡し、慣れた手つきで暗証番号を入力して中へ。コマツは久しぶりの再会に、尻尾を千切れそうなくらい振って、前足で彼女の膝をちょんちょんと突きながら、クンクン鳴き、嬉しそうにまとわりついている。

制服の裾を引っ張るコマツを、紗良は「よしよし」と優しく撫でてリードをつけ、そのまま彼を連れて走り去った。

犬泥棒の一連の流れがあまりにも手際よく、怒りよりも呆れが勝った。こんなに計画的に持ち去るなんて、子供の頃から変わらないなと、思わず苦笑する。

私は紗良をLINEのブロックリストから外し、ビデオ通話をかけた。

着信音が鳴るや否や、まるで待ち構えていたかのように即応答。手元のスマホケースは、見覚えのある新作の限定品だ。

スマホをいじる指先が微かに震え、画面越しに拗ねたような表情でぷいっと顔をそむける紗良。

「ふん。最初に振り返った方が犬だって言ったでしょ?……で、なんで私に電話してきたの?」

ソファの上にはコマツがちょこんと座り、紗良の横で尻尾をぶんぶん振りながらおやつを食べている。

「お前がうちに来て犬を連れていかなければ、電話なんてしないよ。」

「他人の家に勝手に入って、財産を持ち出すってどういうことかわかってるか?」

言いながらも、幼い頃からの彼女の強引さが頭をよぎる。祖母の溺愛を一身に受けて育った、無邪気で傲慢なお嬢様だ。

カメラの向こうで、紗良はソファに寝そべりコマツの頭を撫でながら満面の笑み。

「息子を家に連れて帰っただけよ。どんな罪なの?」

私は一瞬、言い返せずに沈黙し、苦笑いしてしまう。「コマツは俺が買ったんだぞ。」

「家族の一員に所有権なんて関係ないでしょ?」と、いたずらっぽく唇を尖らせる紗良。

「でも、二ヶ月の頃から私が一口ずつご飯をあげて育てたのよ。コマツに会いたければ、家に帰ってきなさい。」

その言葉にはどこか拗ねた寂しさが滲んでいた。家の匂いや温もりが恋しいのは、犬だけじゃないのかもしれない。

一日中の収録で疲れ切った私は、これ以上口論する気力もなかった。

「100万円やる。コマツは俺のものだ。」

なんで今こんなこと言ってるんだ、俺。自分でも思わず心の中で突っ込む。

すると紗良は、まるで尻尾を踏まれた柴犬のように飛び上がり、即座に怒りを爆発させた。「橘悠真、信じられない!」

画面の中で、頬を膨らませてぷんすか怒る紗良。コマツも彼女の勢いに驚いて、目をまん丸くしていた。

彼女は怒って通話を切った。

数分後、紗良はわざとTwitterにコマツとの写真を投稿し、「彼氏の家からこっそり息子を連れてきちゃった。」とキャプション。“#深夜の犬泥棒”のタグがバズり始め、私はスマホをスクロールしながら苦笑した。「子供っぽいな。」

この章はここまで

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