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母の呪いと血の福音 / 第2話:痛みの連鎖
母の呪いと血の福音

母の呪いと血の福音

著者: 上田 誠


第2話:痛みの連鎖

部屋にはすすり泣きと、木の棒が肉体を打つ鈍い音が混じっていた。

畳の上に響く重苦しい音。夏なのに、じっとりと冷たい汗が額に滲む。障子の外では、セミの声も遠ざかっていた。時折、遠くから犬の鳴き声が聞こえ、蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。

私はそれを無視し、机に向かって宿題をしていた。こんな光景にはもう慣れきっていた。心の奥では叫びたかった。でも、声を出せば自分まで巻き込まれる気がして、鉛筆を握る手だけが震えていた。

ノートに鉛筆を走らせる手元に、時折震えが走った。けれど、それでも算数の問題を解き続けた。これが私の日常だった。

母は近隣の町でも有名な厄病神だった。祖母は、母には「厄落としの女」の運命があると言った。

町内の寄り合いでも、母の噂は絶えなかった。「中村さんちの嫁さん、あれは厄病神らしいよ」と、誰かがいつも囁いていた。

殴れば殴るほど家が栄え、罵れば罵るほど暮らし向きが良くなる。

祖母は、「神様よりもこの女のほうがご利益があるんだ」と、近所の人に冗談めかして語っていた。

またビニールハウスの収穫期がやってきた。何トンもの野菜を高く売るため、祖母はもう仏壇に手を合わせることもなく、母を部屋に閉じ込めて容赦なく殴った。

外ではトマトやキュウリの香りが流れてくる。祖母は、仏壇の前に手を合わせる代わりに、母の髪を乱暴に掴み、叱り飛ばしていた。

「この厄病神が!明日も野菜、ちゃんと売れるように拝んどけ!またぶっ叩くぞ、分かったか!」

怒声は壁の向こうまで響き、鳥たちが一斉に飛び立っていった。母は畳の上にうずくまり、声にならない呻きを漏らした。

母の苦しげなうめき声が次第に小さくなっていく。

やがて、部屋にはただ空気の重さだけが残った。私は息を殺して静かに耳を澄ませていた。

祖母は母の髪を引っ張り、顔を平手打ちした。母の顔はいつもあざだらけで、傷のない場所はなかった。

母の頬には新しい傷と、古い傷が複雑に重なっていた。髪をかきあげるたび、痛々しい赤紫の跡が覗く。

父は座椅子にふんぞり返ってタバコを吸い、まるで無関心だった。

座敷の奥で、父は新聞を広げ、煙草の灰を畳に落としながら、ただ無表情で天井を見上げていた。

彼らにとって、母の叫び声はまるで福の神の扉が開く音のようだった。

「いい声だなぁ」と、父が薄く笑った。その笑い声が、私の耳に不気味に響いた。

「美咲、水を一杯持ってきな。おばあちゃんが疲れないようにね、この役立たず!」

祖母の声は、食卓から私を呼びつける鐘の音のようだった。私は立ち上がり、台所へ向かった。

私は魔法瓶から熱いお湯を汲み、ふと考えて冷たい水に替えた。

蛇口から出る冷たい水の流れる音が、なぜか心を落ち着かせてくれた。「これなら……」と、私は小さくため息をついた。

前回、熱いお湯を持っていったとき、祖母はそれを母の口にそのまま注ぎ込み、母の喉を火傷させて死にかけさせた。

思い出すだけで、背筋が凍った。母の声が枯れ、何日も苦しんでいた姿が頭に浮かぶ。

そのとき初めて、父と祖母が本気で母の安否を気にする姿を見た。

普段は無関心な二人が、あの日だけは母の顔を覗き込み、不安そうに顔を見合わせていた。いつもの光景とは違っていた。

「母さん、もう少し手加減しろよ。死なせたら家の福の神がいなくなる。」

父は煙草の火を揉み消しながら、低い声で祖母に囁いた。空気が一瞬、凍りついた。

祖母はぶつぶつ言った。「ああ、つい夢中になってしまった。次は気をつけるよ。」

祖母は口元を歪めて、納得したように首を縦に振った。その手は、まだ母の髪の毛を握ったままだった。

私は病室の外に立ち、ベッドに横たわる母を見つめて、胸が締めつけられた。

母の顔は枕に埋もれ、微かに肩が上下していた。私はドアの前で、ただじっと見つめていた。

後で医者が「もう危険はない」と言ったとき、父と祖母は満面の笑みを浮かべていた。悲しみを宿したのは私の目だけだった。もしかしたら、母自身は目覚めたくなかったのかもしれない。

病院の廊下の窓から差し込む夕日が、母の頬に淡い光を落としていた。「もう、目覚めなくていいよ」と、私は心の中でそっと願った。

祖母がやめる気配を見せなかったので、私はそっと裏庭に抜け出し、物置の戸を開けた。

湿った土の匂い。物置の中には古い草刈り鎌と、使い古された長靴が転がっていた。私は小さくため息をついた。

間もなく、隣の佐藤おばさんが叫んだ。「中村さんち、ヤギが逃げてるよ!」

佐藤おばさんの大きな声に、周囲の犬が一斉に吠え出した。ヤギは門の外を駆けていく。

祖母と父はヤギを追いかけて飛び出し、母はしばしの間、暴力から解放された。

私はその隙に、静かに母の部屋へ向かった。障子をそっと開けると、母はうつ伏せに倒れていた。

私は部屋に戻り、母を布団に運んだ。手には血がつき、途方に暮れた。

畳の上に点々と残る血の跡。私は小さなタオルで拭いながら、どこまで拭けばこの苦しみが消えるのか考えていた。

以前は母が殴られるたび、身を挺して守ろうとした。しかし私が守ろうとすればするほど、彼らは母をより激しく殴った。

何度も祖母の手を掴んで止めた。けれど、そのたびに私は押し倒され、母の上に重なるようにして殴られた。

何よりも衝撃だったのは、母自身が私の保護を望まなかったことだ。いつも私を冷たく突き放し、罵倒した。

母は目も合わせず、手で私を遠ざけた。「余計なことはするな」と、小さな声で吐き捨てた。

「なんでこんな娘を産んだんだ。消えろ。」

その声は、私の心の奥に小石を投げ込むような冷たさだった。なぜそんなに冷たいの、と心の中で問いかけても、母の背中は何も答えてくれなかった。混乱と傷つきが胸の奥を締め付ける。

やがて私は母を守るのをやめた。無意味だと悟ったのだ。守ろうとすれば、母はもっと酷く殴られ、私も殴られるだけだった。

私は、ただそっと母の傍にいることしかできなかった。守ることの無力さを痛感しながら、静かに泣いた夜もあった。

無表情の母を見つめながら、静かに消毒液を傷口に塗った。私たちは一言も話さなかった。

アルコールのしみる匂い。母は顔をしかめもせず、ただ遠くを見ていた。

祖母と父がヤギを追って戻ってきたときは、もう夕方だった。彼らは明日はきっと野菜が高く売れるとつぶやいた。

夕焼けの中、祖母は手を叩きながら、収穫の話を自慢げに語った。父は財布を覗き込みながら、明日の売上を数えていた。

私は母と一緒に、寒く日も差さない西の部屋で、梁を走るネズミの音を聞きながら眠りについた。

古い家の梁を、小さなネズミが走り抜ける音。布団の中、私は母の背中越しに温もりを探していた。暗闇に包まれた部屋で、私は小さく震えていた。

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