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母の呪いと血の福音 / 第1話:厄落としの女
母の呪いと血の福音

母の呪いと血の福音

著者: 上田 誠


第1話:厄落としの女

「おまえはなぁ、昔から厄落としの女だって言われてきたんだよ」

祖母はしわがれた声で、まるで昔話を語るように呟いた。母のことを「厄落としの女」だと、繰り返し言い聞かせてきた。生まれつき不幸を背負い、その苦しみが周囲の繁栄を呼ぶ──それがこの村の迷信だった。

その言葉には、古びた村の空気が染みついているようだった。祖母は「母がいることで家に福が舞い込む」と何度も私たちに言い聞かせる。夕暮れの空をカラスが数羽鳴きながら横切っていった。遠くで電車の発車メロディが微かに聞こえ、田舎の夕暮れがさらに沈んでいく。

酔った父が母の頭に一升瓶を叩きつけた翌日、父はパチンコで十万円を勝ち取った。

タバコの煙が部屋に立ち込めるなか、父は鼻歌交じりでその日の勝利を語り、祖母は「やっぱり、厄落としの女のご利益だ」と満足げに頷いた。母は髪から血を滴らせ、静かに床を拭いていた。

祖母が母の体をつねってあざだらけにした後、急に隣の老人から熱心に言い寄られるようになった。

風呂場で母の肩や背中に残る紫色のあざを見て、私は胸の奥が苦くなる。祖母は「色気がついた」と得意げに笑い、母はただ黙って目を伏せていた。

大学受験の前夜、姉は一瞬ためらったが、結局誘惑に負けて夜通し母を縫い針で刺した。母の苦しみの叫びは、専門学校レベルの成績しかなかった姉が、奇跡的に一流国立大学に合格する代償となった。

障子越しに響く母の叫び声。夜明け前、私は耳を塞ぎ、何度も寝返りを打った。受験会場へ向かう朝、姉の手にはまだ小さな血の跡が残っていた。

誰かが母を虐げるたびに、その人には必ず報いがあった。

それは、家の中だけの不文律だった。畳に染み込んだ血の色、奇妙に膨らむ財布、突如舞い込む幸運。誰も疑わなかった。

家族の誰も、母を人間として扱わなかった。「厄落としの女」──生まれつき打たれるために存在する女だ、と正当化していた。

いつの間にか、母への暴力は行事のようになり、誰もが自分を正義だと信じていた。仏壇の蝋燭が、母の悲鳴に呼応するように揺れていた。

ただ私だけが、母の傷にそっと息を吹きかけ、薬を塗り、病や災いから解放されるようにと願った。

夜の静けさの中、私は母の膝の傷口を消毒し、そっと絆創膏を貼った。祈るように、「もう苦しまないで」と心の奥で呟いた。遠くで犬の遠吠えが微かに聞こえた。

私だけが知っていた。母は「厄落としの女」ではない。彼女は人間ですらなかった。

あのときの母の瞳、底なし沼のような深さ。その瞳の奥に、底知れぬ闇がゆらめいていた。息を呑むほど冷たい空気が、部屋を満たしていく。私は、子供の直感で恐ろしいことに気づいていた。

彼らが母を打つたび、彼ら自身の寿命が少しずつ吸い取られていった。

こっそり眺める家族の背中。その肩が日ごとに小さく、弱々しくなっていくのに、私は気づいていた。

いわゆる幸運は、ただの餌──母が彼らの命を引き出すための手段だった。

私の耳元で、夜な夜な虫の音が響く。家の福は、どこか不気味な餌のように見えた。私は布団の中で、明日が来るのが怖かった。

この章はここまで

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