第1話:キノコ岩の夜
冒険を求めてやってきた三人の女性と、同じテントで夜を迎えることになった。
あの夜の湿った空気、テントの中に広がるひんやりとした地面の感触が、今でも肌に残っている。山の夜の静けさは、都会のざわめきとはまるで別世界だ。テントの薄い布越しに虫の声がささやき、遠くの沢のせせらぎが静かに耳に届く。その音たちが、心の奥底にまで沁みわたってきた。
もちろん、彼女たちは自分の意思でそこにいた。
「無理やりじゃないから」と、後になってみんなで冗談交じりに笑っていた。山という非日常が、人を少しだけ大胆にさせるのかもしれない。ランタンのほのかな光の下、彼女たちの表情には、日常の鎧を脱ぎ捨てたような解放感が宿っていた。
この仕事に誘ってくれた従兄は、こういう女性たちは自ら山へやって来るのだとよく言っていた。
従兄の言葉には、達観と諦観が混じっている。「山は人を素直にする」とか、「人の欲望も自然の一部だ」と、そんな言葉をしみじみ語る。年季の入った水筒からお茶をすすりつつ語る従兄の背中には、田舎男のしたたかさと温かみが同居していた。
登山グループは、男性四人、女性四人、そして俺と従兄。合計十人だった。
初夏の朝、町のバス停に全員が集まったときのざわめきが、今も鮮明に思い出される。登山靴の紐を何度も結び直す人、ザックの重さを何度も確かめる人、誰もが期待と不安の混じった顔で空を見上げていた。リーダーの真理子さんが手帳で点呼をとり、従兄は軽口で場を和ませる。
彼らはすでに四日三晩かけて裏山の稜線を巡るルートを決めていた。
計画書を広げると、みんなの目がキラキラと輝いた。地図に引かれた赤いルートが宝の地図のように見え、未知の景色への期待が高まった。
決して簡単な旅ではなかった。
「遭難したらシャレにならないよ」と誰かがつぶやき、誰もが緊張と高揚の入り混じった表情で深呼吸した。まるで遠足の前夜のような、落ち着かないワクワク感がグループ全体を包み込んでいた。
山や断崖、原生林、急流を越える。最も奥には「暗い谷」と呼ばれる場所があり、地元の人でも滅多に足を踏み入れない。
「暗い谷には河童が出るって噂、知ってる?」と、ウシボスが半分本気、半分冗談で話していた。山域には今も怪談や伝説が色濃く残り、山の精霊を祀る小さな祠も、道すがら何度も見かけた。
だが従兄は気にしない。「お客様が行きたいなら、どこでも案内する。ガイドはただの案内人だから」と、淡々とした口調の奥に責任感と誇りがにじむ。
「大輔は頼りになる」と町内の老人たちが口をそろえて言う理由が、今なら分かる。
彼はこの仕事を五、六年続けて町で一番稼いでいた。俺を連れてきてくれたことに、心から感謝していた。
従兄の後ろ姿を見ながら、いつか自分も一人前のガイドになりたいと密かに思った。彼がさりげなくコンビニでおにぎりを多めに買ってくれるような、細やかな優しさに、俺は深く敬意を抱いていた。
初日の夜、俺たちは「キノコ岩」で野営した。
日が暮れる頃、岩の上から町の灯りが遠く滲み、涼しい風が頬を撫でていった。山の匂いと湿った苔の香りが、疲れた体をそっと包み込む。
キノコ岩は崖の中腹にあり、山肌から突き出た平らな岩が巨大なキノコの傘のように見える。東の朝日、西の夕日、南の大パノラマ。草原と古木が茂り、自然のバルコニーとして夏の夜の思い出が詰まっている。
昼は小鳥のさえずり、夕方はヒグラシの合唱。岩の下にはツツジが咲き、夜には淡いホタルが光る——キノコ岩だけの情景だった。
何より圧巻なのは崖の縁。千メートルの断崖に見えても、実は三、四メートル下にもう一段岩棚がある。だから、もし滑っても大丈夫。
「万が一滑っても、下の棚があるから安心だ」と従兄が説明し、皆は少しだけ表情を和らげた。
この自然の利点から、キノコ岩は最初の宿営地になる。
地元登山サークルでも人気で、夏の夜は何度もここで焚き火を囲んだ。「山で初めて飲んだ缶ビールも、ここだったな」と懐かしさがこみ上げる。
夕日が沈み、夜にはみんなが焚き火を囲んで上機嫌でおしゃべりに花を咲かせていた。男たちは自慢話を競い、女たちは笑いながらお世辞を言い、皆で酒を酌み交わし、面白さや色っぽさを競い合っていた。
焚き火の明かりが顔をやさしく照らし、瓶ビールのラベルが夜の山に美しく映える。ビールを渡し合う手の温もり、氷がグラスの中でカランと音を立てる。誰かがギターを持ち出して「上を向いて歩こう」を歌い始め、いつの間にかみんなで合唱する。酒の勢いも手伝って、昭和の山小屋のようなノスタルジーが漂った。
俺と従兄は、その輪には加わらず、少し離れた場所で静かに星空を眺めていた。従兄は古いカメラで夜景を何度も撮り、近くの笹の葉が夜風にさやさやと揺れていた。
山の端にテントを張り、二人で座っていると、夜も更け、他の連中の賑わいも遠くなっていった。
「静かになったな」と従兄が呟く。焚き火の名残が、赤く小さな火の玉になっていた。
従兄はテントから布の袋を取り出し、中をゴソゴソと探ると、得意げにニヤリと笑った。
その仕草は子どものように無邪気で、俺は「何を企んでるんだ?」と苦笑いした。袋の中からは乾いたビニールの音が聞こえる。
「それ、何?」と俺が聞くと、
「聞くなよ。今回の稼ぎはこれにかかってる」と従兄。
従兄は少し声をひそめ、目を細めて俺を見た。その顔にはしたり顔の余裕がある。
彼はいつもグループの物資を自分で管理し、俺には手伝わせなかった。少し気になりつつも、俺は黙って従うしかなかった。
しばらくして、みんなも自分のテントに戻り、ファスナーを閉めて明かりを落とした。
テントの薄い布ごしに、寝袋のガサゴソ音やささやき声が遠く聞こえる。山の夜は、昼間とは違う気配に包まれている。
「もうすぐだ」と従兄が言った。
なぜか胸がざわつく。「何が起こるんだ?」とドキドキしていた。
「何がもうすぐ?」
「シーッ……見てろ」と従兄はあるテントを指さした。
従兄の目が鋭くなり、まるで野生動物のような集中力を感じさせた。
案の定、そのテントのファスナーが開いた。丸顔で大きな耳の頭がそっと覗き、周囲を見回して従兄を見つけると、こっそり近づいてきた。
月明かりの下で、その姿はやけに目立った。大きな影が、草むらをそっと踏みしめている。
「なあ兄貴、例のブツある?」と大男は従兄の隣に座り、ニヤニヤしている。
声は少し裏返り、どこか可愛げがあった。手には缶ビールを持ち、さっきの宴の余韻がまだ漂っていた。
彼の名字は牛田(うしだ)だが、皆「ウシボス」と呼んでいた。太っていて人懐っこく、グループのムードメーカーで、女性たちにも人気者だった。
「ウシボス、今日も絶好調だな」と誰かが冗談を飛ばすと、彼は決まって「ま、山来るとすぐ腹減るわ」と大きな声で笑い、場を和ませる。そんな男だった。
「あるよ」と従兄。
その声はどこか芝居がかっていて、彼なりの商売の流儀なのかもしれない。
俺は混乱した。「例のブツ」って何だ?
「一つくれよ」とウシボス。
「一つ千円だ」と従兄が布袋からポケットを開けてウシボスに中を見せる。
「千円?高いなあ」とウシボスがぼやくと、従兄は薄く笑って目線を外した。
「価値があるかどうかは自分で決めろ」と涼しげに言い放つ。
その言い回しが妙にカッコよく、俺は従兄の人生経験の深さを感じて見とれてしまった。
ウシボスは舌打ちし、少し迷ったが「分かった、千円でいいよ」と千円札を小銭入れから取り出し、慎重に手渡した。
従兄は金を受け取り、袋から何かを取り出してウシボスに渡した。
「よし、商売成立だ」と小声でつぶやく。
「他にもあるぞ」と従兄。屋台の店主のように、次々と袋から商品を見せる。袋の中には色とりどりのものが詰まっていた。
「他にも?」
「ほら、見てみろ」
従兄が袋を開くと、ウシボスの目がキラリと輝いた。
「うわ、バリエーション多いな!」とウシボスが感嘆の声を上げる。
「こっちは安い。八百円だ」
「じゃあ黒いやつをくれ」とウシボスはまた札を渡した。
「さすが、目利きだな」と従兄が軽口を叩く。
今回ははっきり見えた。
袋の中から取り出されたのは、つややかな黒いストッキングだった。
ウシボスはストッキングを手に取ると、ニヤリと笑い、手のひらでそっと撫でた。その仕草に、欲望とどこか可笑しみがにじむ。
「これさえあれば……」とウシボスは小声でつぶやき、静かに別のテントへと消えていった。
月明かりが、ウシボスの背中をやさしく照らしていた。
その夜、山の静けさの中で、俺はまだ知らない世界の扉が開く音を聞いた気がした。