復讐の刃に濡れる夜
第2話：裏切りのカフェと血の誓い
私は「すべての命は平等だ」とは信じていない。人には富士山のごとき重みがある者もいれば、羽のように軽い者もいる。
仏教的な価値観では命の平等が説かれるが、日本社会では「重み」というものが日常の判断基準となることも多い。世の中は、厳しい。
山口教授はまさに富士山のごとき重みを持つ——国の至宝だ。
静岡の人間にとって、富士山の形容は最大の敬意の証。教授を讃える言葉が自然と心に浮かぶ。
彼は億単位の年俸を捨てて帰国し、日本の産業を築いてくれた。私の心の中で、彼は本当にかけがえのない存在だ。
経済紙で何度も彼の特集を見かけた。世間の喧騒を離れ、あえてこの町に戻ってきたその姿勢に、私は深い敬意を感じていた。
山口教授の優しさを今でも覚えている。決して偉ぶらず、PayPayの設定を手伝ってほしいと恥ずかしそうに頼んできた。日本の発展ぶりに感嘆し、「現金もいらず、顔認証で支払いができるなんて」と驚いていた。
教授は年配ながらも柔らかな笑顔を見せ、私がスマホの画面を説明するたび「ほう、すごいなぁ」と何度も頷いた。その姿がどこか父親に重なり、胸が温かくなった。
肩を叩かれ、「ちょうどいい時に帰国できて嬉しい。工場地区でたくさんの問題を発見した」と話してくれた。
「地元のために一肌脱げるのは誇りです」と語る教授の背中には、頼もしさと同時にどこか儚い影があった。
だが、彼の怪我は私にも関係がある。
その責任感が胸の底で重く渦を巻く。あの日の自分の判断が、今も後悔となって突き刺さる。
すべて私のせいだ。私は一族の工場に設備を届けるのに忙しく、PayPayの設定は休み明けに手伝う約束をしていた。
教授のスマホを受け取ったまま、うっかり自分のスケジュールで後回しにした。今思えば、あの時無理してでもやるべきだったのだ。
私がいなければ、山口教授は現金で支払うこともなく、不良に狙われることもなかっただろう。
自責の念が膨らむたび、心臓が締め付けられる。たった一つの行動が、これほど大きな悲劇を招くとは。
その不良——
あいつの顔が脳裏にちらつく。声も、態度も、今も鮮明に思い出せる。
今、私は小さなコンビニの上にある黒いネットカフェに座っている。
外は曇天、コンビニの明かりが路地をぼんやりと照らしている。狭い階段を上がり、場末のネットカフェの薄暗さの中、私は一人席に腰を下ろした。
椅子がギシギシと軋み、隣のブースからはオンラインゲームの効果音と、レトルトカレーの温める電子音が聞こえてくる。カウンターから漂うレトルトカレーの匂いが、狭い空間に染みついていた。
ここが山口教授が襲われた現場だ。
壁紙の黄ばみ、タバコの匂い、安いビニールの椅子。静けさの奥底に、事件の痕跡がまだどこか残っている気がした。
彼は帰国後、工場の技術問題を早く解決しようと、夜遅くまで作業することが多かった。腹が減ると、工場長が社員食堂の調理師を起こして夜食を作らせていた。
「申し訳ない」と頭を下げる教授に、食堂のばあちゃんも「先生のためなら」とにっこり微笑んでいたものだ。
だが山口教授は気を遣い、他人に迷惑をかけたくなかった。だから夜中に腹が減ると誰も呼ばず、自分でここに来て、カップ麺を買い、お湯を借りて路上でしゃがんで食べてからまた仕事に戻っていた。
真夜中の自販機の明かりの下、コートの襟を立ててカップ麺をすする教授。その姿は、誰にも見せたくない孤独と優しさの象徴だった。
斎藤蓮はここでネットサーフィンしていた。山口教授が現金で支払うのを見て、悪だくみを思いつき、熱々のカップ麺を彼にぶちまけたのだ。
その光景を想像するだけで、怒りと悔しさが胸に込み上げる。斎藤の冷ややかな目、そして何も感じていないような無表情が、どうしても許せなかった。
このガキは警察署から出たばかりで、ネット代もなく、椅子にふんぞり返って「中年男を殴った」と得意げに吹聴している。
肘をついて足を組み、まるで自分が英雄であるかのように周囲を睥睨していた。
他の不良たちも興味津々で耳を傾けていた。
「マジで？」「やべーな、それ」「ウケるんだけど」と、くだらない武勇伝に安っぽい共感が広がる。その空気がますます鼻についた。
勉強に誇りはなく、暴力を武勇伝のように語る。
この町の高校生の一部には、こうした歪んだ価値観が根強く残っている。教室で勉強するより、喧嘩で名前を上げる方がカッコイイと本気で思っている。
隣には女の子がいて、誇らしげに言った。「その時、私も兄貴と一緒だった。笑い死ぬかと思った。あのオジサン、怖がって震えてて、お金が必要なら働けって説得までしてたの。兄貴はそのまま平手打ちして、カップ麺を頭からぶっかけたら、オジサンは泣き叫びながら服まで脱いでたよ。」
女の子の化粧は濃く、爪にはラメがきらめいている。彼女の声が妙に甲高く、わざと周囲に聞こえるように語っているのがわかる。
私は眉をひそめた。
無意識に指先で眉間を押さえ、ため息が出そうになる。嫌悪感が体の奥からにじむ。
斎藤蓮は一人っ子のはず。妹なんているわけがない。
あいつの家のことは町内会でも有名だった。妹がいたら、誰かがとっくに噂しているはずだ。私の記憶は確かだ。小学校の運動会で父親と並ぶ蓮を見たことがあるが、妹などいなかった。
私は確信している——なぜなら、彼がネットカフェで自慢している間に、私は既に彼の家に忍び込み、父親の手足の腱を切り、四肢を廃人にしていたからだ。
あの日、家の玄関先で、薄明かりの中、彼の父親は顔をゆがめて床に倒れ、助けを求めていた。その声が今も耳に残っている。
父親は血の海に倒れ、絶叫していた。私は戸籍簿を確認し、斎藤蓮が一人っ子であることを確かめた。
役所で手に入れた写しを開き、家族構成を指でなぞった。確かに「長男 斎藤蓮」のみ。妹の名はなかった。
子が教えられないのは親の責任だ。
日本では、親が子をしつけるのは当たり前。どんな理由があろうと、子の行いは親の鏡だと見なされる。
斎藤蓮が警察署に連れて行かれた時、父親は謝るどころか、山口教授を罵った。「警察を呼ぶなんて余計なことを。示談で済ませればよかったのに、山口教授が訴えるから息子は退学になった」と。
唇を歪めて「うちの子は悪くない」と繰り返す姿が目に焼き付いて離れない。
山口教授は三百五十の工場が共同で招いた貴賓だ。彼を侮辱することは宗家全体への侮辱に等しい。
この町の、いや、地方全体の産業の未来がかかっている。そんな人物を貶めることは、地域共同体への背信そのものだった。
妹だという女の子の正体に思いを巡らせていると、斎藤蓮はその子の腰に腕を回し、耳元でキスしながら聞いた。「妹よ、俺のこと好きか？」
あからさまなスキンシップ。周囲の注目を集めるためのパフォーマンスでしかない。
女の子は目を白黒させつつも、彼に触られるのを嫌がらず、ますます誇らしげな顔をしていた。まるで兄貴分に抱かれるのがステータスのようだ。
地方の夜の街では、こうした関係性が自慢のタネになったりする。女の子も、まんざらでもなさそうだった。
私は悟った——義兄妹ごっこだ。
「またか」と内心で苦笑する。この年頃の連中にはよくある話だ。
この年頃は、適当に兄貴や妹を名乗ることが多い。
地域の祭りや夜の集まりでよく耳にする呼び方だ。
誰かが聞いた。「カップ麺ぶっかけた時、オジサン火傷しなかったの？」
やや声がひそひそと、興味半分に問いかける。
斎藤蓮は「運が良かった。服脱ぐのが早かったから火傷はしなかった。ただ赤くなっただけ」と答えた。
自信満々に言い切るが、その裏には軽蔑も混じっている。
女の子は「兄貴も運が良かったよ。もし本当に火傷してたら、兄貴はすぐに出てこれなかった」とため息をついた。
まるで事件が他人事であるかのような口ぶり。私は唇を噛み締める。
胸が痛んだ。
静かに指先を机に当てて、その痛みを堪える。心の中で叫び声を押し殺した。
なぜなら、私は山口教授が実際に火傷していたのを知っているからだ。
あの夜、病院の蛍光灯の下、包帯だらけの教授の手と顔が頭から離れない。
病院に運ばれた時、医者は火傷が広範囲だと言った。皆で怪我の診断書を取るよう勧めた。
「念のため診断書を…」という同僚の声に、私は強くうなずいた。
だが山口教授は断った。「大したことはない。若者は衝動的なものだ」と私たちを安心させた。
「世間に大きくするな」と、逆に私たちを気遣った。
怪我の診断を受けず、少年にチャンスを与えたいと主張した——そのせいで斎藤蓮はあっさり釈放された。
その優しさが、かえって災いとなった。教授の誠意は、相手には全く伝わっていなかったのだ。
だが誰が想像できただろう。斎藤蓮が出てきて最初にしたのは、また彼に復讐することだったとは。
日本の「更生」や「許し」の限界を痛感した瞬間だった。
今も斎藤蓮は平然と「数日間拘留されるくらいどうってことない。留置場に入ったことない奴は仲間じゃない」と語る。
「どうせまたすぐ出て来れるし」と吐き捨てるような調子。教訓など、何一つ得ていない。
斎藤蓮が「入ったことがある」と話すたび、周りの生徒たちは一種の憧れの目で彼を見ていた。
田舎町特有の閉塞感の中で、「アウトロー」がもてはやされるゆがみ。大人たちの教育の不在が浮き彫りになる。
まるで刑務所ではなく、東大や京大に行ったかのように。
その誇示の仕方が、どこか滑稽にすら感じる。
別の誰かが聞いた。「大人を殴ったのに、反撃されなかったの？」
興味本位というより、スリルへの憧れが混じった声色だった。
斎藤蓮は淡々と答えた。「俺が殴る時、反撃した奴なんていない。」
うそぶくような口調。虚勢と自己正当化の入り混じった言葉。
女の子が笑った。
彼女は身振り手振りで語る。「マジでウケたよ。オジサン裸なのにメガネだけはかけてて、兄貴がもう一発平手打ちしたらメガネがずれて、オジサンは震えながらメガネを直して『若いの、やめなさい、よくないことだ』って言ってたの。
そしたら兄貴がまたビンタして、今度はメガネが飛んで、オジサンは顔を押さえて痛がってた。何て言ったと思う？」
彼女の身振りには、いかにも平成後期以降の若者らしい大げさな芝居気が混じっている。手を振り、目を大きく見開き、周囲の笑いを誘う。
不良たちが一斉に「何て？」と騒ぐ。
話の続きを促す声が四方八方から飛ぶ。みんな、まるで面白動画を見るかのようなテンションだ。
女の子は口を手で覆いながら「ずっと『あいたた…！』って泣き叫んでたの」とゲラゲラ笑った。
その姿がどこか滑稽で、哀れでもあった。私は視線を伏せる。
ネットカフェ中が大爆笑に包まれた。
店員が苦い顔をしてこちらをちらりと見やる。だが誰も止める者はいない。
「本当に『あいたた』って叫ぶ奴いるの？」
「漫画でしか見たことないよ！ウケる！」
笑い声が何度も天井に跳ね返る。私は机の下でこぶしを握りしめた。
彼らの話を聞きながら、私はポケットの血に染まった短刀に手を触れた。
冷たい鉄の感触。心が静かに凍りついていく。
面白いか？
心の中で反芻する。自分の感情に押し潰されそうだった。
全然、面白くない。
唇がかすかに震えた。呼吸を整えようと、ゆっくりと鼻から息を吸った。
帰国した教授が十七歳の不良にカップ麺をぶっかけられ、路上で裸にされ、平手打ちされ、痛みに泣き叫ぶ——
私は無意識に拳を強く握り締めていた。爪が手のひらに食い込む。
私には、それは胸にナイフを突き立てられるような苦しみだ。
静かに目を閉じ、わずかに震える肩を押さえた。
誰かが思わず言った。「蓮兄、殴って警察に連れて行かれたって先生が言ってたけど、もう学校には戻れないんだろ？どうするの？」
部屋の片隅で、場の空気がわずかに変わる。現実の重さに気付いた者もいたのだろう。
斎藤蓮は肩をすくめ、気にした様子もなく「もう勉強しない。兄貴分と話がついてる。学校やめたらバーの宣伝係やるんだ。上手くやれば月十万以上稼げる」と答えた。
虚勢に満ちた口ぶり。だがどこかに、やりきれなさも滲んでいた。
不良たちの目が丸くなった。金額にではなく、「本当にバーで働いてる人を知ってるのか」と驚いているのだ。
東京でも、大阪でも、若者の間で「水商売」の話題は未だに人気がある。だが現実は、そんなに甘くはない。
斎藤蓮は得意げに舌打ちした。
足を組み直し、どや顔で煙草に手を伸ばす。
私は何も言わず、タバコに火をつけて机に置き、ゲームを続けた。
煙がふわりと舞い上がる。静かな怒りが、体の奥で燻り続けていた。
机の上のセブンスターはすぐに斎藤蓮の目に留まった。しかも、その下には数万円の現金も置いてある。
昭和の頃から変わらぬセブンスターのパッケージ。今どき珍しいが、不良たちには妙な憧れがあるらしい。
警察署から出たばかりだから、さすがに自制するかと思ったが、この餌に食いつくかどうかは分からなかった。
私は無言のまま彼の様子を伺っていた。彼の目は現金の上で一瞬止まった。
だが、彼は何も学んでいなかった。
ほんの僅かの間も迷わず、手を伸ばしてきた。
彼は歩み寄り、セブンスターを手に取り一本抜き出した。
その仕草には、常習の確信と開き直りが滲んでいた。
私が見ていると、彼もこちらを睨み返し、タバコを咥えて火をつけた。
その目はどこか挑発的だった。「やれるもんならやってみろ」と言わんばかりの態度。
やがて彼はタバコの下の現金に気付いた。
一瞬、視線が金額をなぞる。手が微かに震えた。
私は片手でポケットの短刀を握り、もう片方の手を彼に伸ばした。
その時、彼は突然振り返り、他の者たちに叫んだ。「午後、喧嘩だ。来る奴いるか？」
声を張り上げ、仲間たちに気を散らせる。小さなネットカフェの空気がざわめき立つ。
みんなの注意がそちらに向く。
数人が立ち上がり、肩をいからせて「やるやる！」と声を合わせた。
私は理解した。彼は私に「今から仲間を呼んで喧嘩するぞ」と示し、タバコを取ったのは『顔を立ててやった』というアピールで、騒ぎを起こすなという意味だ。
一種の縄張り意識。「ここで騒ぎを起こすな、後で外でやれ」という、裏社会の暗黙の了解だ。
普通なら、この状況で躊躇するものだ。
だが、所詮は不良の集まりだ。
彼らは、暴力でしか自分を証明できない子供たちだった。
女の子はわざと無関心な口調で「兄貴、今度は誰とやるの？」と聞いた。
唇を尖らせ、脚を組み直しながら小首をかしげる。その姿もまた、仲間内での序列を意識している証だ。
その口調から、彼女がしょっちゅう兄貴分と一緒に喧嘩しては誇りに思っていることが伝わる。
女の子の目には、どこか高揚と期待が浮かんでいた。
斎藤蓮はニヤリと笑った。「昨日のあのオッサンだ。俺を警察に突き出して学校から追い出しやがった。許さねえ。今度はお前らも一発ずつ張ってやれ。できるか？」
「うっし！」と誰かが叫ぶ。日本の若者独特の、無意味な連帯感が漂う。
私は顔を曇らせた。
無言のまま、眉間にしわを寄せ、深く息をついた。
彼が言っているのは山口教授のことだ。
心の中で「これ以上、教授を侮辱させてはならない」と思いを強くした。
みんな口々に「やろうぜ」と気取ってみせる。
テーブルの下で拳を強く握る者もいた。
私はため息をついた。
わずかに肩を落とし、静かに立ち上がった。
立ち上がってカフェのドアまで歩き、内側から鍵をかけた。
「カチャン」という金属音が、妙に大きく響く。場の空気が一瞬止まった。
最初は「借りは借り主に返すもの」と思っていた。今日の件は他のガキどもには関係ない、巻き込むつもりはなかった。
できるだけ平穏に終わらせようと思っていた。だが。
だが、全員が山口教授を害するつもりなら、一匹残らず駆除するしかない。
心の奥底で、決意の炎が静かに燃え上がる。
この黒いネットカフェは三階の狭い部屋で、電源は一階から管理されている。
廊下の奥に配電盤があるのを、私は既に確認済みだった。
つまり、今やこのガキどもは私に閉じ込められ、逃げ場がない。
不良たちは、まだ事態の深刻さに気付いていなかった。
彼らは私の行動に気付かず、むしろ携帯を取り出して友人たちに電話し、「これから喧嘩だ！来る？」と興奮している。
「LINEで回して」「集合場所どこ？」とざわざわと声が飛び交う。
女の子も電話し、「午後、一緒にオジサンをぶん殴りに行こう」と自慢げに言っていた。
「ぶん殴る」と言う時、まるで何か偉業を成し遂げるかのように強調していた。
女の子の声はどこか浮ついていて、現実味がまるでなかった。
斎藤蓮は再び私のセブンスターを取り上げ、みんなに配り、現金を当然のようにポケットに入れた。
煙草の煙が部屋に充満し、現金の札束が妙に生々しく光る。
この男、警察署から出たばかりなのに、何も学んでいない。
「懲りないな」と内心で舌打ちする。
私の視線に気付いた斎藤蓮は、気まずそうに、しかし傲慢に「何見てんだよ、ジジイ。気に食わねえのか？」と聞いてきた。
声が少し裏返っていた。
私は言った。「今、俺から盗んでるよな？」
平坦な口調の中に、わずかな怒気を込める。
斎藤蓮は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「そうだよ、盗んでるけど、どうするんだ？オレ、三中の蓮だけど？知らねぇの？」
声を張り上げるが、周囲の反応は冷めていた。
彼は自分の名前を誇らしげに叫び、周囲の恐怖を期待しているようだった。
だが私は彼の目を見つめ、静かに言った。「さぁ？どこの誰かも知らないな。大したことないんだろ。」
一瞬、場の空気が凍りついた。誰も声を出さない。
その瞬間、彼は逆上し、テーブルの下から空きビール瓶を取り出して私に向かって歩み寄った。
瓶の底を握る手がわずかに震えていた。
下のコンビニのおかげで、ここにはお菓子や飲み物、そしてゴミが山ほどある。
テーブルの下には、菓子パンの袋や空き缶が散乱していた。
他の不良たちは止めず、むしろ煽り立て、私の周りに集まった。
「やっちまえ！」という声が飛ぶ。誰一人、止めようとしなかった。
斎藤蓮は空き瓶を私の頭に押し付け、兄貴分のように「これで頭かち割ってやるよ。気に入るぞ」と嘲った。
声の奥にわずかな怯えが混じっているのを私は見逃さなかった。
そして周りに「今すぐカフェに来いって伝えろ——ぶっ飛ばすぞ」と指示した。
指示を受けた数人がスマホで連絡を取り始める。
不良たちは大笑いしながら、電話で仲間を呼び始めた。
「これで盛り上がるぞ！」と誰かが叫ぶ。
私も携帯を取り出した。
手が震えていることに自分で気付く。だが、静かに指先が動く。
斎藤蓮は私が助けを呼ぶと思い、瓶を胸に押し当てて「仲間呼ぶのか？どっちが多く呼べるか勝負だな」と冷たく言った。
「余裕ぶっこいてんな」と周囲の不良たちが笑う。
私は彼を一瞥し、電話はせず、音声メッセージを送った。「太っちょのコンビニにいる。」
落ち着いた声で短く用件だけを伝える。日本人らしい簡潔さだ。
彼は私の携帯を奪い、メッセージを見ると大笑いした。「助けを呼ぶのかと思ったら、見ろよ、誰に送ってるんだ。」
そのメッセージは私の二番目の叔父に送ったものだった。
「親戚のオッサンなんか呼んでどうすんだよ」と周囲の不良たちがはやし立てる。
斎藤蓮は「この歳で、ボコられそうになって叔父さんに助けを求めるとかウケる。叔父さんってヤクザか？何歳だよ」と笑った。
下卑た笑い声が部屋の隅々まで響き渡る。
不良たちも一斉に笑った。
「今度は親呼ぶのか？」
「この歳で、困ったら親呼ぶのかよ？」
「おい、母ちゃんも呼んで俺らの相手してくれよ。」
「叔父さんはどこの組の人間なんだ？」
誰もが、今の空気を茶化して誤魔化そうとしている。
私は静かに答えた。「私の叔父は宗家評議会の会長だ。」
その言葉に、場が一瞬ざわついた。だが斎藤にはピンときていない様子。
斎藤蓮は「は？どこの組だよ、それ」と困惑した。
訛り混じりの声で、「組長でも何でもねえじゃん」と吐き捨てる。
その瞬間、部屋の電源が落ちた。
「バチン」という乾いた音。電灯が消え、モニターも沈黙し、闇が一気に広がった。
すべてのパソコンが一斉に消え、突然の暗闇に彼らは呆然とした。
誰かが「やば、停電？」と呟く。空調の音も止まり、静寂だけが残る。
不良の少女が「なんで停電？全部停電？」と呟いた。
彼女の声が妙に大きく聞こえる。
窓に駆け寄り、外を覗いて「何これ？道が塞がれてる」と息を呑んだ。
息を荒げながら窓を曇らせる。外の様子を必死で確認しようとする。
みんなが窓に集まる。
小さな窓に次々と頭が押し寄せる。背伸びする者、椅子に乗る者もいる。
道路には四台のショベルカーが入口を塞ぎ、黄色いテープが張られていた。
黄色いテープには「工事中」の文字。だがその様子は異様だった。
工事のようだが、ショベルカーを停めた作業員たちはそのまま立ち去った。
見知らぬ作業着の男たちが、何も言わずに立ち去っていく。その後ろ姿がどこか不気味だ。
四台のショベルカーで道を塞げば、警察すら入れない。レッカー車でも無理だ。
町内会の祭りでも、これほど大胆な封鎖は見たことがない。
外からはコンビニのBGMがかすかに聞こえ、ショベルカーのエンジン音、遠くで響く救急車のサイレンが都市の生活音として混じっていた。
彼らが外を見ている間に、私はテーブルを蹴り倒した。
足元に力を込め、一気にテーブルを倒す。パソコンや書類が床に散乱した。
パソコンとテーブルが床に崩れ落ち、出入口を塞ぐ。
騒然とする中、誰もが動揺を隠せない。
彼らは驚き、斎藤蓮は「お前、頭おかしいのか？」と叫んだ。
その声には焦りと怒りが入り混じっている。
私は「善人を殴るのがそんなに面白いのか？」と尋ねた。
静かな声で問いかける。相手の胸を抉るような鋭さだった。
誰かが「バカか」と罵り、私に詰め寄った。「何言ってんだよ？」
顔を真っ赤にして拳を握るその少年の目は、明らかに恐怖で泳いでいた。
私は「聞いてるんだ。まっとうな知識人を殴るのが、そんなに面白いのか？お前らの親が教えられないなら、俺が教えてやる」と言った。
その言葉が空気を凍らせた。
彼は笑った。
作り笑いだ。乾いた、虚勢だけの笑みだった。
私の胸を押し、「ビビらせるつもりか？俺たちが誰だか分かってるのか？」と言った。
自分を大きく見せようと、必死に声を張り上げる。
私は首を振った。「社会のゴミの名前なんて誰も気にしないさ。」
唇の端を持ち上げ、静かに吐き捨てた。
そう言いながら、私はポケットから短刀を抜いた。
カチャリ、と鞘が外れる音が、闇の中に響いた。
血に染まった刃は、私の服で拭われ、冷たく光っていた。
薄明かりの中、その刃が異様に鋭く見えた。
怯える者もいれば、怯えない者もいた。
数人は一歩後ずさり、数人は足を踏ん張った。
目の前の不良は、怯えなかった。
顎を引き、意地でも怯えを見せまいとしていた。
彼は「ナイフで脅すつもりか？やってみろよ、今日は斬らせてやる」とあざけった。
顔を歪め、舌打ちしながら私に迫る。
頭を差し出し、頭皮を指して「ここを斬れ。斬れなきゃお前は俺の犬だ」と言った。
見栄と虚勢の象徴。自分が負け犬になりたくない一心なのだ。
私は笑った。
冷たい微笑みが口元に浮かぶ。
不良は滑稽だ。
彼らの薄っぺらい自信が、どこか哀れにも見えた。
「まず、短刀は斬るものじゃない。第二に、人間の頭蓋骨は硬すぎる。頭は斬らない」と言った。
静かな声が部屋を支配した。誰も何も言えない。
みんな私がビビったと思い、笑い出した。
だが、その笑いの奥に、わずかな不安も見え隠れしていた。
彼は得意げに顎を上げ、鼻先を指して「チャンスをやったのに、やっぱりヘタレだな。お前——」と言いかけた瞬間、私は動いた。
一瞬で間合いを詰め、無駄のない動きだった。
彼の膝を蹴り、テーブルに手をついて跪かせた。
その身体が不自然な形で折れ曲がる。悲鳴が漏れた。
私はナイフを持ち上げ、その手のひらに突き刺し、テーブルに釘付けにした。
鮮血がテーブルを染め、彼の叫びが響き渡る。
カフェに悲鳴が響き渡る。
全員が動けず、ただその場に立ち尽くしていた。
全員が呆然とし、威張っていた不良は豚のように絶叫した。
汗と涙で顔をぐちゃぐちゃにし、もはや威厳のかけらもなかった。
私は冷たく言った。「短刀は刺すものだ。」
その静けさが、かえって恐怖を増幅させた。
血が吹き出し、彼は恐怖で手を押さえたが、出血は止まらない。指の間から血が溢れ、威勢は消え失せ、泣きながら「兄貴、ごめんなさい、落ち着いてください」と懇願した。
嗚咽まじりの声に、部屋の空気がまた一段階重くなる。
善人をいじめていた未熟な不良も、本物の怖さを前にすればただの子供だ。
彼の泣き声が、どこか遠い過去の自分の姿と重なった気がした。
私はため息をついた。「お前が社会のゴミ以上の価値があるとは、やはり証明できなかったな。」
その言葉が、彼の心に深い傷を残しただろう。
私はナイフを引き抜いた。その際、刃が手首を横切り、腱を断ち切った。
グシャリという音が静かに響く。手首から血が滴り落ちた。
彼は痙攣しながら床に崩れ落ち、壊れた手首を抱えて泣き叫んだ。
涙と鼻水が混じった顔が、悲しみに満ちていた。
場は静まり返った。
誰もが、言葉を失っていた。
私は彼らに歩み寄る。今や彼らの顔には恐怖しかない。
全員の視線が私の手元のナイフに吸い寄せられていた。
「面白いか？お前らの顔を見てると、俺もなかなか面白いと思うよ」と言った。
声の端に、皮肉とも憎しみともつかぬ響きがあった。
斎藤蓮はまだ空き瓶を握っていたが、もう戦うことも逃げることもできない。
肩を震わせ、歯を噛みしめて立ち尽くしている。
皆がパニックになり、彼を前に押し出したが、二歩も進むと足がすくみ立てなくなった。
背中を押された瞬間、彼の脚が小鹿のように震えていた。
たった三階だ。
外へ逃げれば、怪我をしても命は助かるかもしれない。だが、それすらできない。
斎藤蓮にとっては、窓から飛び降りるのが最善だったかもしれない。
それでも、面子と恐怖が足を縛っていた。
だがこの年頃は、面子がすべて——特に仲間の前では。
昭和も平成も令和も、若者の虚勢は変わらない。
多くの若者が、プライドを捨てきれず社会で痛い目を見るのを私は知っている。
何人も、同じような目に遭ってきたのを見てきた。
斎藤蓮は平静を装って「兄貴、そんなにカッカすんなよ。俺らも悪かった。ナイフなんて意味ないだろ」と言った。
声は震えていたが、なんとか虚勢を保とうとしていた。
私は冷笑した。
口元に薄く笑みを浮かべ、「お前も、もう終わりだ」と心の中で呟いた。
口では強がっているが、明らかに怯んでいる。
その瞳の奥に、もはや自信はなかった。
斎藤蓮は「兄貴、どこの人？俺も顔が広いんだ。もしかしたら同じグループかもよ」と言った。
何とか共通項を探そうとする必死さが伝わる。
私は淡々と「宗家だ」と答えた。
その言葉は、静かな雷のように響いた。
彼は動揺した。「分かんねえよ。そんな組知らねえ。二中の龍兄は知ってるか？それとも東口バーの十三守護？」
次々と地元の有名な不良やバーの名前を出してきた。
私は首を振った。「もういい。来い。お前の手足の腱を切ってやる——お前の親父と同じようにな。」
その冷酷な宣告に、斎藤の顔から血の気が引いた。
斎藤蓮は呆然とした。「親父がどうしたって？」
声はかすれていた。
私はポケットから切り落とした指を取り出し、彼の前に投げた。
小さな音を立てて、指が机の上に転がる。
その指には「財」と刻まれた重い金の指輪がはめられていた。
金色が蛍光灯の残光を反射し、異様な存在感を放っていた。
それは斎藤蓮の父親の指だった。
一瞬で、斎藤蓮以外の全員が青ざめ、恐怖で叫び声を上げた。
背筋に冷たいものが走る。女の子は震えながら「兄貴、こいつ絶対あんた狙いだよ！早く！」と叫んだ。
声が裏返り、息が詰まるような嗚咽が混じった。
斎藤蓮は彼女を睨みつけた。
睨み返すその目には、もはや余裕のかけらもなかった。
少女はパニックになり「兄貴、あんただけが頼りなのに！」と叫んだ。
叫び声が部屋中に反響した。
斎藤蓮は彼女を平手打ちし、「じゃあお前が行けよ！」と罵った。
乾いた音が部屋に響く。その瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。
彼女は顔を押さえ、呆然と彼を見つめた。
頬に赤い手形が浮かんでいた。
突然、「もうあんたの妹じゃない！出てく！」と叫んだ。
声が裏返り、息が詰まるような嗚咽が混じった。泣きながら、部屋の端に駆け寄ろうとする。
顔を押さえて私の横をすり抜けようとしたが、私は彼女の腕をつかんだ。
彼女の手首は細く、震えていた。
彼女は泣きながら「お兄さん、私、あなたに何もしてません。殴るならあいつを殴って、私を放して」と懇願した。
涙でぐしゃぐしゃの顔が哀れだった。
私は聞いた。「さっき、俺が盗まれた時、お前は見て笑ってたよな？」
その言葉に、彼女の肩がびくりと震えた。
彼女は固まって答えられなかった。
唇がわなわなと震え、目を逸らす。
私はナイフの切っ先を彼女の目に近づけ、冷たく言った。「汚いものを見るのが好きなら、その目は必要ないな。」
静寂の中、私はナイフの切っ先を彼女の目に近づけた——そして誰も、次の瞬間を予想できなかった。