第1話:猫と偏見
私たちのマンションの下には、二匹の野良猫がいます。娘の理奈は、いつもキジトラ猫にだけ餌をあげ、もう一匹の黒猫にはまったく目もくれません。黒猫の目がどこか冷たく感じて、理奈はどうしても近づけなかったのかもしれません。
マンションのエントランス近く、夕暮れどきに人通りが途絶えると、コンクリートの隙間に二匹の猫が身を寄せ合っています。空気はひんやりと澄み、遠くで自転車のベルが小さく響く。理奈はランドセルを抱えたまま、キジトラだけにそっとポケットからカリカリを取り出して置いてやります。その手つきは無邪気で優しいのに、黒猫にはまるで存在しないかのような態度です。
それどころか、他の猫の餌入れにまだカリカリが残っていると、理奈はこっそりそれを捨ててしまうのです。周囲は静まりかえり、夕焼け色の空の下、コンクリートの冷たさが指先に伝わります。理奈は周りを気にしながら、小皿をそっと持ち上げ、近くのごみ箱に中身を捨てます。悪戯をする子のように、指先が小さく震えていました。
「どうしてそんなことをするの?」と聞くと、理奈は少し言い淀んでから、「……だって、オスって、なんかイヤなんだもん。パパ以外は、みんなダメ」と、腕を組んで口をとがらせました。その表情は妙に大人びていて、どこでそんな偏見を覚えたのか、不思議に思うほどでした。
私は思わず面食らい、「オスはみんなダメって言うけど、パパもオスだよ。じゃあ、パパもダメなの?」と、冗談めかして聞き返しました。理奈の考えがどこまで本気なのか、確かめたかったのです。
理奈はすぐに首を振り、「パパは世界一のパパだよ。でもパパ以外の男はみんなダメ」と、照れたように頬を赤くしながらランドセルのひもをぎゅっと握りしめていました。その言葉に少しホッとしつつも、子どもなりの理屈に肩をすくめました。
この話を妻の美咲にすると、美咲は笑いながら「この年頃の子は女の子同士で遊ぶのが好きなのよ。男の子をちょっと敬遠するのは普通のこと」と私をなだめました。
美咲は自分の子ども時代を思い出すように、箸を一度止めて味噌汁の湯気に目を細め、ご飯粒を箸で寄せながら「理奈もそのうち成長したら、きっと考え方も変わるわよ」と言いました。湯気と味噌汁の匂いが、食卓にやさしく満ちていました。
むしろ理奈が男の子を嫌っていることに、どこか安心しているような口ぶりでした。「世の中は暗い森みたいなものだから、知らない男の人には警戒しておくほうがいいのよ」と、理奈にもよく言い聞かせていたことを思い出しました。
美咲の声には娘への強い思いと、母親としての慎重さがにじんでいました。「知らない人に絶対についていかないでね」と、理奈には口うるさいほど言っていたのです。
美咲の言葉ももっともだと思い、それ以上は追及しませんでした。
茶碗を片付けながら、私は「これも一種の親心か」と、どこか納得した気持ちになりました。
その後、オス猫は何度もいじめられてついに姿を消し、残ったメス猫も長くは持ちませんでした。愛想の良すぎる三毛猫に追い払われてしまったのです。
マンションの掲示板には「野良猫にエサをやらないでください」という貼り紙が増え、近所の子どもたちの間でも猫を見かけなくなったと噂されていました。三毛猫は誰にでもすり寄るため、住民にかわいがられていましたが、あとの二匹は静かに街から消えていきました。