第1話:ラベンダーの夜、疑念のカード
私の妻はセックス依存症だった。
——まさか自分が、こんな言葉を口にする日が来るとは思わなかった。だが、それが現実だった。
喉の奥が苦く、言葉が胸の内で何度も跳ね返る。こんな現実、夢であってほしかった。息は浅く、胸の奥がざわついて仕方がない。
でも、私のために治療を受けると決めてくれて、症状もかなり落ち着いてきていた。
アヤカは、カウンセリングに通うたび、帰宅後そっと「とらや」の羊羹や桜餅を買ってきてくれたり、私の好物のしじみの味噌汁や、豆腐とわかめの味噌汁を丁寧に作ってくれたりした。リビングには、加湿器の湯気に混じってラベンダーの香りがそっと漂い、障子の隙間から夜風がそっと流れ込む夜も増えていた。
時には、夜遅くに私が近づこうとしても、彼女は私の健康を気遣って、優しく断ってくれることさえあった。
「タクミ、お仕事頑張ってるんだから、体が一番大事だよ。早く寝てね?」
彼女は、そう言って小さく微笑みながら、私の肩にそっと手を置く。その手のぬくもりに、残業疲れがふっと和らぐような気がした。
そんな彼女の優しさに、私は胸が温かくなり、本当に自分のことを思ってくれているんだと感じていた。愛があれば、どんな困難も乗り越えられると信じていた。
障子越しに差す月明かりが、彼女の横顔をやさしく照らしていた夜を、私は何度も思い出した。
だがある日、出張先のビジネスホテルの部屋のドアの下に、妻の写真が載ったカードが差し込まれていた。
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出張から帰るのが遅くなり、不眠症の妻を起こしたくなくて、私はそのままホテルに泊まることにした。
まだ春先の冷たい夜風が、窓の隙間から微かに入り込む。私は、セブンイレブンで買ったカフェラテの缶コーヒーを手に、ベッドで備え付けの浴衣姿のまま、スリッパを履いてぼんやりとニュース番組を眺めていた。
部屋でくつろいでいると、ドアの隙間から微かな音がした。
ピタリ、と聞き慣れぬ紙の擦れる音に、私は一瞬耳を澄ませた。
見に行くと、カラフルなカードが差し込まれている。
やれやれ、と苦笑しながらスリッパを突っかけ、ドアまで歩いた。
私は呆れながら、最近の世の中は本当に乱れてるな、と首を振った。
ビジネスホテルも昔と変わったな、とぼやきつつ、ふと自分の学生時代の安宿を思い出した。
ホテルのフロントに苦情を言おうと、拾い上げようとしたその瞬間、私は凍りついた。
指先が、まるで氷水に浸したように冷たくなる。
目をこすり、信じられない思いで見つめる。
息が止まった。カーディガンの袖口を握りしめ、もう一度、まじまじとその写真を見直す。
カードに写っていたのは、間違いなく妻のアヤカだった。
しかも、裸で全身をさらし、誘惑的なポーズを取っている。見る者の妄想をかき立てる姿だ。
まるで雑誌のグラビアのような、しかしそれ以上に生々しい、決して他人に見せたくない一面。
カードに書かれていた文言はさらに露骨だった。
「寂しい人妻、深夜の密会——心も体も二重の絶頂をお約束」
下品なフォントが、まるで嘲るように私を見つめ返してくる。
顔が一気に熱くなり、怒りと恥ずかしさで頬が真っ赤になった。
心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクとうるさく響く。
最初に思ったのは、誰かが妻の写真を盗用したのだということ。
こんなものに合成されるなんて、ひどい侮辱だ。
脳裏には、ネットの悪質な業者や詐欺サイトの噂がちらつく。
私は激怒し、犯人を見つけてやりたかった。
喉の奥がカラカラに渇き、思わずペットボトルの水を一気に飲み干す。
報復されるのも怖いので、新しいLINEアカウントを作り、カードの連絡先を追加した。
スマホを操作する手が、ほんの少し震えていた。
すぐに分かったのは、それが妻のLINEではなく、アカウント名も全く違うこと。
つまり、妻の裏アカウントではなかった。ようやく胸のつかえが下りた。
背筋に走っていた寒気が、ほんの少し和らいだ。
そう思ったとき、私は自分を思わず平手打ちしたくなった。
自分の手のひらを強く握りしめ、恥ずかしさと安堵が入り混じる。
何度も「妻は陥れられたのだ」と自分に言い聞かせていたが、心の奥底では疑念の種がうごめいていた。
だが、アカウントが妻のものでないと分かり、彼女を疑った自分が恥ずかしくなった。
アヤカは私のために依存症と闘ってくれているのに、どうして疑ってしまったのだろう。
私は呆れつつ、カードの写真を撮って業者に送りつけ、文句を言おうとしたが、その時突然スマホが鳴った。
液晶に「部長」の名前が点滅している。
上司からの緊急の仕事だった。私は全てを後回しにして、まずノートパソコンを開いて対応した。
無意識に背筋を伸ばし、深夜のホテルで黙々とエクセルを打ち込む。
仕事が終わり、思い出してスマホを見ると、すでに何件もメッセージが届いていた。
「イケメンさん、目が高いですね!うちのナンバーワンを選びましたが、今夜は予約が入っています」
「他の子もご案内できますよ——満足保証です!」
美女たちの写真が続々と送られてきた。
画面の中で、まるで回転寿司のようにプロフィールが流れていく。
私は鼻で笑った。手口は見抜いている。
きっとアヤカに似た女性をエサに客を釣り、実際は「予約済み」として他の子を売り込むのだろう。
「結局、客寄せパンダだな……」そう心の中で呟く。
私は軽蔑しか感じず、チャット欄で彼らを罵ろうとした。
だが、送信直前、私は凍りついた。頭が真っ白になり、気を失いそうだった。
この夜が、僕の人生の終わりの始まりだった。