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夫の隣は私じゃなかった / 第1話:助手席の異変
夫の隣は私じゃなかった

夫の隣は私じゃなかった

著者: 原 悠真


第1話:助手席の異変

西園寺知景が私を迎えに来た。

玄関を出る前、指先がじっとりと汗ばむ。深呼吸しても、胸の奥がざわついたままだった。

その瞬間、梅雨明けの湿った風が足元に絡みつく。遠くの電柱から、ミンミンゼミの声がけたたましく響いていた。

いつも冷静で距離を保っていた彼が、新しい秘書を助手席に座らせていた。

その違和感に、ほんのわずかながら肌が粟立つ。彼の表情は無機質なまま、背筋の伸び方だけが今日の異変をそっと物語っていた。

その瞬間、私は悟った——この結婚はもう救えないのだと。

1

その日、西園寺知景が車で迎えに来た。

いつものように、私の家の前に静かにレクサスが停まっていた。雨上がりのアスファルトには、車体の影がくっきりと映っている。

助手席のドアを開けた瞬間、私は思わず一瞬だけ視線が泳いだ。手のひらに汗がにじみ、爪をギュッと握りしめる。

車内からふんわりと香る、やや甘いフローラルの香水の匂いが鼻をつき、思わず一歩後ずさる。

若くて美しい女性がそこに座っていて、私に甘い笑みを浮かべた。

その笑顔には、どこか世慣れた余裕と、まだ幼い無邪気さが混ざっている。

「あ、はじめまして、西園寺夫人……」

白石瑠々は、言い淀みながらも緊張と敬意を込めて挨拶した。だが席を譲る素振りはなかった。

細く長い指先がハンドバッグの紐をきゅっと握りしめ、膝はそろえてきちんと座っている。まるで、ここが自分の居場所だと言わんばかりに。

私は目を細めて、西園寺知景に視線を移した。

彼は下を向き、スマホでLINE通話に応対していて、車内の緊張感には気づかないふりをしていた。

左手の薬指には、私と揃いの指輪が光っていたけれど、その存在は今だけ無意味に感じられた。

今夜は一緒にチャリティーオークションに行く約束をしていた。

私はこのデートを楽しみにしていて、彼のために新しいワンピースを選び、髪もセットしてきたのに、まさか助手席に他の女性が座っているとは思わなかった。

支度をしている間、鏡の前で何度もリップを塗り直し、彼に褒められる自分を想像していたのに。

「こんにちは、西園寺夫人。私は白石瑠々(しらいし るる)と申します。西園寺社長の新しいアシスタントです。」

彼女はにっこりと笑い、えくぼが二つできて、特に可愛らしかった。

「今夜、社長と奥様がプライベートオークションに行くと聞いて、どうしても社会勉強したくて社長にお願いしたんです。ご迷惑はおかけしませんので、ご安心ください。」

そのときの私の心は、まるで池に石を投げ入れられたように、静かに沈んでいった。

この冷たく完璧な男のことは、私はよく知っている。彼はいつも他人と距離を保ち、簡単に誰も近づけない。

私たちは親同士の紹介で付き合い始め、熟慮の末にお互いを選んだ。

親戚の法事や親の食事会で、何度も顔を合わせていた。あのときも、彼は一歩引いて私を見守るような目をしていた。

周囲からは「生きた未亡人になる」と冗談を言われたこともある。

親戚の伯母に「まるで氷のような旦那さんね」と笑われた夜のことを、なぜか思い出した。

だが、恋人同士になった後の西園寺知景は、私を優しく抱きしめ、情熱的な時には目が少し赤くなることさえあった。

そのときだけは、誰よりも人間らしく感じた。

彼はかつてこう言った——「君は僕の妻だ。夫婦は一心同体——君は他の誰とも違う。」

まるで、二人だけの契約を交わしたかのような、静かな誓いだった。

だが、今日は何かが変わってしまった。

この章はここまで

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